『 烏兎怱怱 』
  − interval 3 ( a memory of windmill ) −




日が高くなるにつれて雪は溶けはじめる。昏睡したままの緋真を背負い、すゑはぬかるむ帰路を歩んだ。
朽木家外門から流魂街に通じる門への道のりは長く、人通りも多い。瀞霊廷内に住まう比較的裕福な町人らが彼女達二人を胡散臭げに見、視線を外して足早に通り過ぎる。幾ばくかの好奇と、奇妙な者を避けたいという意がありありと含まれていた。
すゑは無関心を装う通行人を横目で見やると、緋真を背負う腕に力を込めた。・・・別段珍しくも無い。自分達が住まう過酷な下層区と違い、厚い壁に囲まれた瀞霊廷の住人は安穏と時を過ごしているのだ。奇異な存在を異端と避けるのは当然のこと。数十年数百年前から、それは変わらない。・・・尤も、流魂街の住人にしても己の生活に精一杯で、やはり他人に特別の注意を払うこともあるまいが。

ことを荒立てぬよう、すゑは目を伏せ黙々と歩いた。と、ぴくりとその眉間に皺が寄った。何者かが後方から真っ直ぐ二人に向かって歩いてくる気配がする。
すゑは大柄であろうその足音を感じとり、もしや巡回の死神に不審に思われたかと思い、しかし同時に奇妙なことに気付く。発せられる霊圧は平の死神と何ら変わりないというのに、隙間から漏れ出る押さえきれない威圧感。もしや自ら霊力を抑えた者か。可能性としては、朽木家のあの老中が差し向けた者か ――― すゑが結論に至るのは早かった。いつでも緋真を抱えて反応できるよう身構えながら、振り返る。

背後にいた大柄な人物の姿を視界に入れ、すゑの目は驚きに見開かれた。
「お久しぶりです」
「春水・・・」
死覇装の上に女物の内掛を羽織り、流れる長髪を無造作に結ったその男は、髭面でにこりと笑って頭を下げた。
京楽春水。学生時代から現総隊長の覚えもよく、迅速に出世し八番隊隊長を任ぜられた男だった。
「あんたか・・・」
すゑは緊張を解いて息を吐く。
「隊長になった時にこっそり言祝ぎに行って以来か。驚いたね。こんな所で会うなんて」
「それはボクが言いたいですよ。まさか瀞霊廷内にいらっしゃるとは」
「ちょっと込み入った事情が、ね」
そう言ってすゑは背負う少女を見やる。京楽は小さく「成程」とだけ相槌を打つと、その先は敢えて聞かず、極くさりげなく隣に並んで歩み始めた。代わり少女を背負おうかとは言い出さない。すゑが自ら言い出さぬ限り、大抵の提案は差し出がましいものとよく判っているのだった。
「・・・今一緒にいると迷惑が掛かるかもしれない」
すゑは前を向きつつも、周囲の物音に耳を澄ませる。
「追手ならその辺の裏路地に転がしておいたから大丈夫ですよ。餓鬼の頃に貴方に習った白伏が役に立ちました。ボクの顔どころか朝に何を食ったかすら記憶に残ってないでしょ」
「ありがたい。手間をとらせたね」
「貴方なら人ひとり抱えても四、五人の相手ぐらいは大丈夫かとは思ったんですが、念のためにね」
そのお嬢さんを起こしては可哀想ですしね、と京楽は冗談めかして笑った。
ふいに真面目な顔つきになり、まあ尤も、と袂から華奢な小刀を取り出した。紋のない鞘を引いて顕れたのは竹光。
「本気で襲うつもりは無かったみたいですけどね」
「尾行程度・・・というところか」
「或いは尾行がいること自体を知らしめるためか」
京楽は手にした竹光をしげしげと見つめた。紋こそないが精巧な作りで、鞘に収められていれば本当の刀と見まごうだろう。その辺のごろつきが持っているような物ではない。しかし、すぐに詮索は無意味という結論に至り、諦めてひょいと裏路地に投げ捨てた。
「・・・あんま、無理しないで下さいね。言いたかないですけどあまりお若くもないんだから」
「女に歳のこと言うたぁ躾の悪いこった。大丈夫、普段は平穏そのもので生きてる。ただ、今ちょっと無理のしどころなんでね」
「左様ですか」
その事情とやらをやはり互い敢えては訊かず、敢えては言わず、話を切ってまた歩く。
隣を歩く男の歩調が自分に合わされているのに気付き、すゑは目を細めた。年月は確実な変化を伴って流れていたようだ。
「・・・でかくなったね。隊長になってから随分経つんだっけ」
「ええ。家は兄貴が難なく継いでくれましたんで。お蔭でボクも呑気に隊長なんてやってられます」
「あんたが悠々と隊長職を張る日が来るとはね。時間が流れるのは早いもんだ」
「渋みが増したでしょう?」
「馬鹿」
言葉面に反してすゑはくつくつと笑う。渋みも何も、この男が文字通り赤ん坊の頃からの付き合いだ。
「貴方は多少お歳を召されましたが益々魅力的に・・・」
「どこでそういうの覚えたんだかね、まったく」
芝居がかった口調にすゑは遠慮なく返す。ふと、さも楽しそうに身を屈めて笑っている京楽の後頭部に目がいった。
笠の下には、幼い頃から変わらない癖のある黒髪。それを長く伸ばして結い、風車を模した簪が差してある。
なにげない意匠だが細工が細かい。かつてすゑ自身の手にあった頃から数えて数十年以上の時を経ている筈だが、よく手入れされているのか古びた様子は無い。
「まだその簪、持ってるのかい。髪なんざ長くしてわざわざ差して」
「・・・時々、華やかにしたいと思ったりするんですよ」
京楽は少しばつが悪そうに頭を掻く。時々、思い出した時にでもつけておかないと無くしてしまいそうですしね、などと言い訳しながら。
これだけ年月が経ち、互いの立場も外見も世の中もすっかり変わってしまったというのに、京楽のどこか汚れきらない目はあの頃のままだった。

すゑはその目にかつての少年を見る。


 ●


数十年前の夏の日。背中にぶつけられたあの声を、すゑは今も覚えている。

「伯母様、行ってしまわれるのですか」

余韻など欠片も無く、なかば逃げるように屋敷の門を出る最後の時に。
女の腹ほどの上背しかない小さな男児が、平素は次子らしく鷹揚な性であったこの男児が、泣くでもなく、自分の袂に取り縋るでもなく、しかし目で訴える。甥は、確かな頑迷さで別離に抗っていた。

その頃まだ死神としての肉体も壮年を極めたすゑの体は、そのひと言で縫いとめられたように動きを止めた。
ひとつだけ抱えた風呂敷包みをぎゅうと握り締める。
蝉しぐれが耳に遠い。

いずれ初の女性隊長にとも将来を嘱望された長女が、あろうことか平隊士と駆け落ち同然に姻を結んだなどという此度の不祥事。
彼女が上位貴族たる実家の京楽家から絶縁を申し渡されたのは当然の成り行きだった。

・・・死別ではない。しかしまだ幼い少年にとっては、親密だった伯母の突然の出奔は今生の別れにも等しい。
「春水」
自ら選び取ったとて離別が苦しいのは自分も同じ。
うすい唇を噛み締めて見上げる少年の目が潤み、雫が落ちるその前に、すゑはその両の手を取った。迷いなく結い髪に差した愛用の簪を引き抜く。髪がぱらぱらと乱れたが、形骸など最早関係ない。
風車がついた簪を小さな手に握らせると、少年の目が一瞬驚きに見開かれ、やがて大事そうに握り締められた。
「元気で」
「・・・はい」
万感の願いと記憶の楔をまだ小さな甥に託して、すゑは生家に背を向け歩き去る。固く決意したように前を向き、二度と振り返りはしなかった。少年は零れそうになる涙を堪えながら、いつまでもその姿を見送っていた。

あれから幾度も夏は巡った。或いは自分が悲しみを抱く子ども達に手を差し伸べずにいられなくなったのは、この夏の記憶がいつまでも消えぬためであるのかも知れないと彼女は思う。


 ●


「・・・ふふ」
思い出して、すゑは微笑む。時間が経つのは早い。死神の職すら投げ打って京楽の家を出、流魂街に暮らし、添い遂げようと誓った夫が病没して既に何年経ったことか・・・。
ふと、思いに耽りながら歩く二人は風を感じる。吹雪が明けて晴れ渡ったものの、時折こうして寒気を含んだ風が吹く。高い建物の多い瀞霊廷内では尚更だった。京楽は肩に羽織っていた女物の内掛けを取ると、すゑが背負っている緋真の身体に掛ける。
「安物で申し訳ないんですが、家に帰るまでこのままで。少しは温かいでしょう」
「すまないね」
「いつも悉く助力を断られ続けてるんです。これ位はさせて下さい」
ごく自然に京楽は笑った。すゑは感慨を込めて、過ぎ去った月日の間にまっとうに成長したらしい甥の姿を眺める。
「そういや、あたしが言うのもなんだけど、あんたちゃんと実家に帰ってるかい?」
「まあ、足繁くという訳にもいきませんが、折りにつけては。唯一話の合う紀子は嫁ぎましたし・・・話し相手は少ないですけどね。妹が先に結婚するってのも複雑なもんです。あとは親父も母も兄貴も健在、・・・お爺様も相変わらずです」
「・・・そうかい」
さりげなく実家の近況も交えながら、京楽は最後に祖父について付け加えた。京楽家先々代の当主にしてすゑの父にあたる人物。もう相当な歳なのだが、未だ壮健である。
「あたしのことで愚痴を言うようなら、たまに付き合って聞いてあげてね」
「はい」
頷きながら、でも、と京楽は続ける。
「爺様も口で言うほど伯母様のことを憎んでいる訳じゃないんですよ」
「・・・」
絶縁を言い渡され、出奔する際にお互い交わされた非難の応酬がすゑの脳裏に蘇る。若さゆえと納得するには余りに卑劣な言葉を自分も口走った。自分の信念も蟠りも未だ消えはしないが、親を罵った事実は年月を経てすゑの中で僅かに淀んでいたのである。
・・・自分とて、かつて縛り付けられていた貴族社会も自分を否定し尽くした父のことも、既に憎む対象でなどないのだ・・・。

そうこう歩くうちに、やがて外門へと着いた。いつも門番は商用の通行証があるといっても厳しく確認に当たるのだが、隊長が同行しているのを見るや実にすんなりとすゑ達を通した。京楽は境界で久方ぶりに会えた伯母を見送る。
「あとは人目に着かなくなったら瞬歩で帰るよ。早くこの子を休ませたい」
「そうですね。お気をつけて。久しぶりにお会いできて良かった」
「ああ。そうだね」
すゑは頷いて背を向けた。力強く少女を背負ったまま、確かな歩みで去りはじめる。
京楽はどこか懐かしく思いながらすゑの背中を見つめていた。

と、そのまま歩み去るかと思われたすゑが、くるりとこちらを振り返る。
「そうそう、」
何事かと驚く京楽に、すゑは晴れやかに、しかし悪戯っぽく告げる。


「その髭は止めといた方がいい。女にもてないよ!」


「な」
呆気に取られる甥を尻目に、すゑは「達者でね」と手を振りながら、再びすたすたと歩み去っていった。
思わず京楽もその背に小さく手を振り、

「・・・敵わねえなぁ、やっぱり」

うすく伸ばした髭を撫ぜ、呆れたように呟いた。しかし、表情は実に嬉しげでもあったという。


雪溶けはじめた、春近い午後の邂逅であった。



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