「・・・で、この辻を曲がって、すぐ見えてくる十字路を・・・ん、・・・ぬう?」
手元の地図と周囲とを交互に見ながら進むゆっくりとした足取りが、止まった。
「十字路が・・・ない」
呆然と。困惑と疲労をない交ぜにしたため息が唇から漏れた。無意識に頭を掻くと肌にうっすら汗を帯びていることに気づく。だが陽光は特別に暑いわけでもなくむしろ心地よい。

ああ、春なのだな、と顔を上げたルキアは改めて思った。



『 朝戸風 』
  − interval 4 ( like a milestone ) −




旅禍侵入とルキア処刑騒動から暫くが経ち、瀞霊廷が僅かに落ち着きを取り戻した春の頃。
ルキアが身を置く朽木家においても、ルキアと白哉の間を埋めていた固く重い氷が次第に緩む気配を見せていた。

発端は白哉が緋真の遺品を納めている蔵の鍵をルキアに渡したことにあった。
緋真とは血の繋がった姉妹であることをルキア本人に伝えた以上、白哉は徐々に亡妻のことを話す必要を感じてはいた。
しかしそもそも感情を口で語ることを苦手とする彼のことである。自分が云々と語るよりはまずは緋真の身の回りのものに直に触れるのが良かろうと、ルキアに鍵を渡したのだった。

緋真の遺品に触れたルキアも色々と思うところが生じたのか、次第次第に白哉に緋真について訊くようになり、また、白哉も徐々に過去について語って聞かせるようになっていったのである。
そんな折、先遣隊としてルキアが現世での業務に就くことが決定した。
隊長の浮竹から正式な辞令を受け取り帰宅したその足で、ルキアは報告のため白哉の部屋を訪れた。旧知である浮竹から既に義妹の業務について聞いていた為か、白哉に驚いた様子は無かったが、なにやら思わし気な表情をしていた。
畏まっていたルキアが更に緊張するその目前で、白哉は紙と筆を取り出すとさらさら淀みなく、簡単な地図と住所を書きつけて渡した。

「現世業務に就く前日と前々日は非番が準備日として充てられているであろう。前々日、朝餉を終えたら此処に向かうがいい。お前の姉が・・・緋真が、私と出会う以前に世話になっていた家だ」
ルキアは神妙な顔で頷き、必ず参りますと即座に確約したのだった。


当日、いつもよりも早い朝食をルキアは急いで片づけ、まだ陽も出て間もない頃合いに屋敷を出た。
だが地図を片手に犬吊へと足を踏み入れてみたまでは良かったものの、兄の言いつけに勇んで臨んだのが災いしたか、彼女はすっかり道に迷ってしまったのである。

「いかん、この辺は私がいた地域とは違うな・・・土地勘が全く働かない」
義兄のしたためた流麗な地図を眺めながら首を傾げるが、一向に見当がつかない。指定された場所は犬吊であり、幼少期に自分が育った地区であるためさほどの不安もなく赴いたのだが。現世の全死者を収容する場である以上、流魂町は一地区とはいえ広大であり、たかが幼児の行動範囲などその一角の一角に過ぎず、まだまだルキアの知らない地域は存在していたのだ。
更に、地図で示されたのは自分がいた地域とは真逆の方向。当初の油断も相まって、ルキアは完全に目標の場所を見失っていた。ましてや白哉との約束の場所に白哉自筆の地図を頼りに向かっているのだ。失敗は許されないというルキアの緊張は焦りへと変わり、ますます正しい道筋が分からなくなってくる。
「・・・皆目見当もつかん」
きょろきょろと周囲を見渡しても周辺は同じように古びた木造の小屋が連なるばかり。
仕方なくルキアは何処かに人影はないかと目をこらした。流魂町下層区に行くにあたり、持っている着物のうちでもっとも古びて庶民らしく見えるものを纏ってきたため、さして問題もなく人に道を尋ねられるだろうと踏んでいたのだが。生憎時間が早いせいか周囲に人の気配は感じられない。

さてどうしたものか、と首をひねったその時、斜めになったルキアの視界の端に、華やかな桃色の色彩が飛び込んできた。
塀の陰でひっそりと躑躅の花が綻んでいたのだった。まだ小さい株だが、枝全体に桃色の蕾を携え、そのいくつかは開花して仄かな香りを周囲に放っている。
思わずルキアは躑躅に向かって歩を進める。すると、躑躅の植えられている場所近くの塀が途切れて、二階建ての家の入り口になっていた。
家の玄関というよりは商店の店先といったところか。商品らしきものはないが、よく見ると奥が作業場になっており、棚に幾つも製造途中の茶碗や坪やらが置かれている。食器を売っている訳でもなさそうなので、製造専門の陶器工房なのだろう。作業をしている人影がちらりと見えた他に、開け放たれた戸の近くで一人の女性が箒でせっせと掃除をしていた。
「あ・・・あのっ、御免下さい」
ようやく見つけた人影に、思わずルキアは声をかけた。一瞬だけ、ここが犬吊であることと不用意に他人に声をかけたことに体を緊張させたが、呼ばれた女性はこちらを訝しがる様子もなくぱっと振り返った。
「はいっ、なんでしょう?」
明るい声だった。歳の頃はルキアよりも幾らか上だろうか。犬吊の女性にしては陰のない大きな瞳で、にこにこと愛想よくこちらを見つめている。着物も身ぎれいにしており、襷でたくし上げられた袖から延びる両腕はその顔同様に日に焼けていた。
この人ならば大丈夫だろう。ルキアは直感を信じて安堵する。
「あの済みません、道をお尋ねしたいのですが」
「はいはい、この周辺は小さい路地が入り組んでいますからねえ。わたしで分かる処であれば・・・」
返ってきた声は丁寧で、犬吊のような場所では珍しい良い教育を受けたのだろうかと勝手ながらルキアは察した。手にした地図を見せようと女性に近づき顔を上げたその時。
「・・・・・・・・・」
女性は何故かルキアを見て驚いたように固まった。
「あの?」
もしや、死覇装も纏っていないのに霊圧で死神であるのがばれたのだろうか。ルキアはすぐにそう感じ、邪険にされることを覚悟した。流魂街下層区では特に住人の死神への風当たりは強い。
しかし女性はくるりと振り返り、「あ、あんた。あんたちょっと」と奥にいる人物を呼んだ。どこか焦ったような、そんな早口だった。
「はいよぉ。今行く」
少し間延びした声の後、奥にいた夫らしき男性が手ぬぐいで汗を拭きながら出てきた。歳はやはりルキアより上でおそらくは女性と同年代か。作業衣からぬっと突き出た腕は太く、指はごつごつとしている。いかにも職人らしい身体つきだった。反面、こちらを見下ろす大きな目が屈託なさそうで、その不釣り合いな感じが人の良さを醸し出していた。女性と同じに、良い人なのだろうという印象をルキアは抱いた。
「すみません、道をちょっと教えて頂きたく・・・」
「なんだ、迷子のお客さんか・・・って、え」
男性もルキアをひと目見るなり言葉を失って立ち尽くした。傍らの女性も、「ね?」と同意を求めるかのように主人に小さく頷いている。

何だろうか。死神だと忌まれていないのだとすれば、急いで朝食を平らげてきた為に口の端に米粒でも無惨についたままだったろうか。それとも目を見張られねばならぬほど自分は珍奇な容貌をしていただろうか・・・とルキアは見当外れな方向に思考を巡らせる。しかし主人はふっと我に帰ると、まったく予想外なことを口にした。
「あのすんません。・・・お名前、教えてはくれませんか」
「は?」
思わず頓狂な声を上げてルキアは目を丸くする。名前? なぜだろうか。道を訊くのに名前を名乗らずにいるのは不作法に当たっただろうか?
名前など教えても別に何も差し支えはないが、何故だろうとルキアは遠慮なく主人を見た。
「いえね、こうして道を尋ねられるのも何かの縁、ということで。深い意味はねえです」
主人は慌てて取り繕ったように言い、女性もそれに合わせて微笑んだ。
人の良さそうな二人は目を細めると、更に親近感の沸く顔立ちをしている。案外、自分と年頃はそう変わらないのかもしれないとルキアは感じた。流魂街の過酷な環境は子どもが子どものままでいることを許さない。恐らく自分と同じに犬吊を生き延びた者同士の親近を覚えて、ふふっと笑った。
「ルキア、と。朽木ルキアと申します」
その名字を耳にした途端、二人は一瞬だけ驚いた様子で、しかしそのまま笑みを深くした。気を取り直したように主人が地図を眺め、何やら頷いている。
「で、分からないのはこのバツのついた家・・・か。ここにお知り合いでも?」
「ええ、身内が昔とてもお世話になったのだそうで。兄が・・・といっても義理の兄なのですが、訪ねるようにと勧めてくれたのです」
「成程。そうですか」
「・・・そう。そうでしたか・・・」
傍らでやり取りを訊いていた女性が得心のいったように頷き、繰り返していた。主人はルキアに見えない背後からその肩をぽんぽんと叩くと、地図と小路とを見比べながら説明を始めた。
「・・・ええとね。この地図の家はここから真っ直ぐ行って、左に曲がったところにある川沿いに下って・・・そうそう、この桃色の躑躅と同じのが軒先に植えられてるからすぐに分かると思います」
「この躑躅と?」
「ええ、実はわたし達そこの家とは知り合いで。この株は挿し木で増やしたものをここに植えたものなの」
顔を上げた女性は嬉しそうに説明する。成程、示された躑躅の株はよく手入れされているのか、咲き終えた花殻も綺麗に取り払われている。女性は咲いている花の中でもひときわ鮮やかに映える一輪を惜しげもなく積んでルキアに手渡してくれた。
「はい。これと同じ花が咲いてる筈だから、目印に持って行ってくださいね?」
「すみません、ご親切にありがとうございます。助かりました」
受け取ってルキアは深々と頭を下げ、教えて貰った方向へと踵を返した。
「・・・お気をつけて」
心のこもった見送りの声を背に受けて振り返ると、二人は微笑んでこちらに軽く手を振っていた。ルキアはもう一度深く頭を下げ、手渡された躑躅の花を大事に手で抱き直し、歩み始めた。


華奢な背中が遠ざかる。しかし背中の主の足取りは力強く、路地に紛れて間もなく見えなくなった。
孝太と幸枝は、予期せぬ稀人の姿が消えても暫くそのまま、名残を惜しむように立ち尽くしていた。
くちき、と孝太は先ほど訊いた苗字を声に出してなぞる。遠くも懐かしい、忘れられぬ名を。幸枝が確認するように同じく「朽木・・・」と口にする。
「あの方、やっぱり」
「ああ。・・・多分な」
確信に肯定を重ねられて、幸枝はほうと溜息を溢すと肩を震わせて目頭を押さえた。閉じた視界の向こうで、『彼女』と良く似た先ほどの少女の姿とが重なり滲む。嗚咽に喉が震えた。
「・・・そっか。よかったね・・・見つかったんだね。白哉さま・・・緋真ちゃん・・・」
「ああ・・・そうだな・・・」
細い肩を宥めるように抱いて、孝太の肩もやがて震えた。
そして、かつての子等から、記憶の中に生き続ける女性へと言祝ぎの言葉は贈られる。

「よかったねえ・・・“お姉ちゃん”・・・」


存外に親切な住人に丁寧に道を示してもらい、ルキアの足は軽やかだった。分かりやすく教えて貰った通りに道を歩き、目的地はもうすぐそこの筈だった。もう見えるか、もう見えるだろうかと手にした躑躅と同じ色の花を探す。
予感があった。これから向かう先には、自分と未だ知らぬ『姉』とを結ぶ確かな繋がりがあるのだと、なかば確信に近い想いがあった。

ルキアは歩きながらふと、頂戴した躑躅の花を口にくわえてみた。
かつて幼少の頃に自分が行い、春に義兄がそうするように。花弁の根本の部分からほのかな甘みが感じられ、ひどく懐かしい想いに駆られる。
舌に残る躑躅の蜜はほの甘く芳しく、さっぱりとした香りと共にルキアを気持ちを満たしていった。



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