『 花惑い 後編 』
  − brother sun, sister moon 1.5 −




先程。通りすがりの子供達に偶然墨をかけられた時。
白哉は割って入った女性の存在に一瞬戸惑った。その彼の前で女性は目ざとく肩口にかかった墨の染みに気が付くと、すぐに状況を察したのだろう。即座に謝り倒し、はやく染抜きと着替えを、と白哉を家に招いた。

緋真と名乗った女性は奥から薄蒼の着流しを持って来、これに着替えて下さいと勧めた。自分は飛んだ墨を何とか染抜きしますからから、と。
渡された着物は古びてはいるものの、生地はなかなか良いようで、ほとんど傷みはない。白哉の背丈にぴたりと合った。


白哉が着替えて間もなく、先程の子供二人と緋真がおずおずと部屋を訪れた。少年は孝太、少女は幸枝と名乗り、こうして三人で畳に額を擦りつけんばかりに謝っているのだった。
特に、孝太少年はしでかした不始末が余程怖ろしいのか、大粒の涙をぼろぼろと零している。
白哉にしてみれば自分が気を抜いていたのも原因であるのに、そのように子供に泣かれては対応に困る。ましてや子供と接したことの少ない彼のこと、それは尚更である。
「・・・気になどしておらぬから、男子がそのように泣くな」と、愛想が無いながらに宥めるのであった。
「・・・う・・・は・・・はいぃ・・・」
「うちの孝太が本当に申し訳ないことをしました。汚してしまった装束はわたしが責任をもってきれいにしますので、どうぞご容赦ください」
緋真が重ねてそう頭を下げると、
「そうよ! ほんとに孝太ったら! 大体あたしが書き取りやってる時に勝手に筆とっていくからこんな事になんのよ」
隣の幸枝が言い、孝太も今までのしょぼくれ様はどこへやら、少女に食ってかかった。
「・・・う・・・うっさい! ちょっと貸してくれっていったのに幸枝が無視すっからだろ!?」
「だってあんたに貸したらいっつも乱暴に使うから」
「あなた達、いい加減にしなさい!」
ぴしゃり、と、緋真が彼らをしかりつけて、二人はまたしゅんと身体を縮める。
「そうやって喧嘩ばっかりしてるから今日みたいなことになるんでしょ? 少しは反省しなさい」
「はい・・・緋真ちゃん・・・」
「ごめんなさい、緋真ちゃん」
「わかればいいの。じゃ、もう一度きちんとこちらの方に謝って?」
「ごめんなさい・・・」
「ごめんなさい、でした・・・」
「いや、だからだな・・・私は別に・・・」
「それじゃ、私はお着物の染抜きをしてきますので、こちらでお待ちになっていて下さい。幸枝、孝太、手伝ってね?」
「はいっ!」
返事をした子供達と共に、緋真は部屋を辞した。白哉は彼らのやりとりに口を挟めぬまま、ひとり客間に残された。


待たされている間、白哉は改めてこの住居を見渡した。
建てられてからかなりの年月が経っているようで、部屋の中も暗く、古臭い印象は否めない。しかしどこか趣を感じるのは、使われている建材が良いためか。黒光りする柱や桟は丁寧に磨かれているらしく、どっしりとしていてそう簡単に傾きそうに無い。
縁側の向こう、猫の額ほどの庭はほとんど畑にされていて、整った畝にみずみずしい葉が並ぶ。そしてその野菜畑の隅に、先程白哉が目にした躑躅が植えられていた。やはり目に華やかな桃色だ。
井戸があると思しき方向から、緋真が懸命に死覇装を洗っているのか、絶えず水の音が立っている。
時折、内容までは聞き取れないものの、先程の子供達の声が流れる。

ふ、と白哉は小さく息をついた。溜息ではない。嘆息でもない。自身でも知らず、緊張が解けた拍子に零れ出た一息であった。
白哉はそんな自分に愕いた。

自分にとって慣れない感情を振り払うように、ふたたび、白哉は先程の謎の香りを思う。
普段の白哉であったなら、この様な平民の招きになど応じず、即座に踵を返してその場を去ったのであろう。
しかしそうできなかったのは、緋真の身体から微かに放たれる、謎の香りのせいである。
白哉は確かに過去、それを嗅いだことがあった。
しかもどうやら、白哉が棄て去った筈の記憶や感情に類する香のようで、心を掻き乱されるのだ。だが、思い出せない。
それがどこか口惜しく思われて、このまま無かった事として自分を納得させられないように思われた。忘れたままでなどいたくない。正体を、つき止めたい。
何事においても完璧を求められてきた彼の、それは素直な欲求だった。



 ●



暫しの後、緋真がいま装束を干しています、と茶を持って部屋に来た。
「ごはんつぶをすりつけて何とか染みを落としたんですが、時間がかかってしまって。ごめんなさい、お召し物が乾くまでもう少し待っていただけますか」
「あ、ああ」
よかった、とほっと微笑んだ緋真は、盆に載せた茶碗を白哉に勧めた。
手を大分長い間冷たい水に浸していたのか、もともと荒れていたらしい細い指がさらに赤くなって痛々しい。白哉はこんな手を見たことがない。
「・・・却って済まなかったようだな」
「え? いえ、手が荒れてるのはいつもの事ですし」
緋真が平気です、とばかりに自分の両手を開いて白哉に見せた時、やはりあの香りがふわりと宙を漂った。
白哉は晒された手ではなく女の目を見て、
「お前のその香りは、何だ?」
単刀直入に、聞いた。緋真は当然ながら唐突な問いに戸惑い、慌てて自分の袂のあたりをくんくんと嗅ぐ。
「え、やだ、わたし、臭います? ぬかづけか何かかしら・・・すみません」
「・・・いや、そうではなくだ。不快なものではなく・・・どことなく不思議な香りがするように感じられる。流魂街で流行っている香か?」
「香、ですか? いえ、そんな高価なものはわたし使ってません」
「では、それは何の香りだ?」
「何と言われても、わたしは特には・・・あ、もしかして」
思い至るところがあったのか、緋真ははた、と口元に手をやった。
「土の匂いではないですか?」
「土?」
「ええ、土。粘土です。粘土の匂いでは?」
「粘土・・・?」
言われてはっと白哉は思い当たる。そうか、粘土か。粘土など久しく目にする機会もなかったが、自分も童子の頃、確かに粘土で遊んだ事がある。
「あ、ああ・・・。そう言われれば、成程」
「でしょう?」
ようやく得心がいった、という様子の白哉を、緋真は嗤うわけでもなくふわりと微笑む。

緋真に感じたのは粘土特有のあの臭いだったのだ。判ってみれば何のことはない、どうして今まで気が付かなかったのかと白哉は記憶の抜かりを恥じた。
「しかし、何故粘土の香りがするのだ」
「それは、わたし達、焼き物を作ってるからです」
「焼き物?」
「ええ。死神の方々が使われるお茶碗やお皿を作って、瀞霊廷で商いをしている方に買っていただいているんです」
「売るということは・・・金が必要なのか? 何故だ。流魂街の者達は食物を必要とせず、故に殆ど金銭を必要とせずに暮らしていけると聞いていたが・・・」
「ええ、それは・・・そうなんですが、わたし達、少しですが霊力があるので・・・。それで、食べ物がないと生きていけないものですから」
緋真はそう言って下を向いた。
通常、流魂街の住人は現世にいた頃と違って空腹を感じることなく、餓死することもない。霊力があって食べねば生きていけぬ死神と異なり、彼らは食に生を囚われずに済むのだ。しかし、まれに霊力を伴って食料を必要とする流魂街の住人も存在する。そういった者達は大抵、真央霊術院の試験を受けて死神になり、糧を得るものなのだが。
「力があるのなら死神になれば良いでのはないか」
「残念なんですが、わたしもあの子達もそこまでの力ではないんです。だから頑張ってお金を作って、食べ物を瀞霊廷の方から買わないといけなくて」
「成程な・・・」
死神にもなれず、かつ餓死を恐れなければならない生活は辛かろう、と白哉は合点がいった。
周囲に食料を生産する者がいない上、荒れたこの下層区の大地では自給も儘ならない。食料が流通せず瀞霊廷ほど貨幣が使われていないため、彼らは自分達の技能で瀞霊廷から金を得、物が揃った瀞霊廷から主な食料を購入しなければならないのだ。成程、ただ生きていくだけでもさぞ苦難が多いことだろう。
「あの子らは、お前の兄弟か?」
「はい。ですが血は繋がっていません。現世からの兄弟ではなく、こちらに来てから家族として暮らしています」
現世で死して流魂街に流された魂魄は、たとえほぼ同時に死んだ家族でも冷徹な籤引きにより、離別を余儀なくされることが多い。
そして流魂街、特にこの戌吊は治安が悪いことで知られている。現世の楔を離れた霊子の存在とはいえ、諍いなどにより『命』を落とすこともある。つまり、『魂魄の消滅』だ。死後の世界たるここでも万人に死の影が付きまとう。ましてや、女子供が生き延びる苦難は察して余りある。こうして『家族』として寄り添いあうことで互いを守りあっているのだ。ましてや霊力があって喰わねば死ぬ、という条件があるのなら尚更のこと、独りでいるより集っていた方が良い。
「それでお前たちは三人で暮らしているわけか」
「いえ、三人ではなくて、もう一人、」
そう緋真が言いかけたとき、

「ただいま、今帰ったよ、緋真」
すらり、と襖が開いて、低く張りのある声とともに初老の女性があらわれた。

「おばあちゃん! お帰りなさい!」
緋真が驚いて言う。おばあちゃん、とは言うものの、まだ老女と呼ぶには若そうだ。背は緋真よりやや高いくらいか、腰はまだ真っ直ぐで足取りもしっかりとした様子で、緋真の隣に座る。白髪の混じった髪と皺が刻まれた表情は確かに年齢を感じさせるが、目が、何よりも若々しい。着古した藍染めの作務衣をぴしりと着込み、それが似合っているのも若く見える要因か。
「お客が来ていると聞いて来てみれば・・・珍しいね、外に死覇装が干してあったけども・・・死神じゃないか」
女性は遠慮なく白哉を見ると、豪放に言った。
白哉は、対するは平民とはいえ歳重ねた人物のこと、あくまで礼儀正しく頭を下げた。
「・・・お邪魔しております、六番隊に所属している死神です。あなたは?」
「あたしの名はすゑという。緋真が説明しただろうが、ここで子供らを預かってかつかつ暮らしている婆あさ。孝太に聞いたけど、うちの悪ガキどもが粗相をした様で、申し訳なかったね」
「いえ、こちらの不注意の上での事でもあります。どうぞお気になさらず」
白哉は片手の拳を畳についた。
「・・・」
すゑはそれを見て一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情を元に戻した。そして緋真が淹れてくれた茶をごくりと飲んだ。
「ありがとね、緋真」
「お疲れさま。どう、いい材料は見つかった?」
「いいや。丁度いい粘土が出ないよ。ま、ゆっくり探すさ」
「そう・・・」
緋真は残念そうに肩を落とした。どうやらすゑは原料の粘土を探しに行っていたらしい。
「幸い、この間買い取って貰った花器がいい値だったから、しばらくはおまんま食いっぱぐれる事は無いしね」
「本当!? あれ、売れたの?」
「ああ。あんたはなかなか腕が良くなったよ」
「そっか・・・あれ、買ってもらえたんだ・・・よかった」
「ここに来た頃は土の練り方もなってなかったってのにねぇ・・・。あたしも年とる筈だわ」
「もう、おばあちゃんったら」
二人の会話を横で聞いていた白哉は納得した。恐らくはこのすゑという人物、行き場が無く死神にもなれない子らを引き取り育てながら、生きる為の技術を教えているのだろう。緋真もその一人であるなら、身体に粘土の匂いが染み付いている理由も頷ける。

と、子供達の声が外で響いた。孝太と幸枝が躑躅の木の近くでこちらに向かって手を振っている。
「緋真ちゃーん! 上の方で花が咲いたよー!」
「はいはい、ちょっと待ってね、今行くから」
緋真はちょっと失礼します、と白哉に会釈をすると、玄関で草履をつっかけて庭へと走っていった。
子供達に先程のような萎縮した雰囲気はない。それでいい、と白哉も思った。年端もいかない童子を怖がらせて優越を感じるような趣味は彼も持ち合わせていない。

明るい春の陽の中で遊ぶ子供らをすゑは見やり、
「あんた、貴族なんだね」とぽつりと言った。
「!」
だしぬけに言われた言葉に白哉が軽く瞠目すれば、彼女は平然と茶をすすってみせる。
「隠そうとしているみたいだが・・・所作とか、話し方で分かるよ。しかも下級貴族じゃない・・・上級貴族か、四大貴族の人間かい?」
「・・・いかにも、私は朽木家の者。朽木白哉と申します」
この人物、何者か。白哉は穿った。護廷十三隊にいち席官として勤める上で自分が貴族だと示しても不利なだけである手前、普段も今も、特に自分が貴族である事を誇示した覚えはない。
だが、白哉は素直に頭を下げた。この老女の素性は知れないものの、そこまで推し量れる者に隠し立てしても自分に利はない。
「朽木家の・・・そう、あんたが。当主が亡くなって若い一人息子が後を継いだとは聞いていたけど」
「・・・よくご存知のようだ」
「こんな下層区とはいえ、四大貴族ともなれば噂も聞こえてくるってもんだよ」
からからと何でもないことのようにすゑは笑ってみせた。白哉はその豪快な笑いに、自分が知らぬだけで本当にそのような噂程度は流魂街でも流布されているのかもしれない、と感じた。ならばすゑは単に自分に鎌をかけただけか。しかしこの人物、特別害のある人物でもないだろう、とこれ以上白哉は何も言わずに黙した。

ふたたび庭を見ると、三人はなにやら躑躅の木の周りに集っている。そのうち、孝太は背伸びをして花を一輪取ると、その花を咥えはじめた。
「あれは、何をしているのです?」
「何って・・・躑躅の蜜を吸っているのさ」
「躑躅の蜜?」
「なんとか食べていけるだけは稼いでるっていっても、甘いものを子供らに買ってやれるような余裕、うちには無いからね。ああしてあの子達は躑躅の蜜を吸っておやつ代わりにしてるんだよ」
「・・・」
成程、貴族の自分にしてみれば甘味などの嗜好品は望めばいくらでも手に入るが、ここ流魂街ではそうはいかない。さきに聞いた彼らの暮らしぶりと併せ、心中密かに納得した。


彼らはまだ躑躅のなかからなるべく大きな花を手折っているのだが、何せまだ咲いている数が少ない。
ちょうど緋真の手の届かないあたりにひとつ咲いていて、もう少しというところでなかなか取れない。まだ花を貰っていない幸枝がしびれを切らし始めていた。
「緋真ちゃん、あたしにも取ってー!」
「ちょっと待って、あとちょっと・・・あ、」
懸命に手を伸ばしていた緋真の視界に、ふと暗い影が入ったかと思うと、長い男の手が苦も無くその花を取った。白哉だった。
「これでいいか」
「ありがと、お兄ちゃん!」
手渡された幸枝は満面の笑みで礼を言い、孝太が「いいなー、幸枝、でっかいの取ってもらってー」と零した。
「あ・・・ありがとうございます」
「いや・・・」
白哉は頭を下げる緋真にもひとつ花を取ってやると、彼女が花のがくを取りって蜜を吸うの眺めていた。
そして、もうひとつ花を取っては彼女に倣い、自分も花の根元に口をつけた。
「甘いな・・・」
「え?」
「このように甘いものとは思わなかった」
「もしかして、初めてなんですか?」
「ああ。躑躅の蜜など吸ったのは初めてだ」
緋真はそれを聞いてきょとんと目を丸くすると、
「そうですか」
と、くすくす笑った。

白哉は彼女が自分のことで笑うのを決して不快に思わなかった。
口に広がった柔らかな蜜の味を感じながら、明るく微笑む彼女をじっと見ていた。



 ●



それから程なくして干していた死覇装がほぼ乾き、白哉はこの家を後にした。
べつだん愛想も無く玄関を出る彼を、家の主であるすゑと緋真、そして子供達は改めて事を詫びながら、丁寧に送り出したのだった。


白哉は隊舎へは戻らず、直接屋敷に帰ると、
「おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ、白哉様」
大きく堅牢な玄関に、早速使用人やら庭師やらが出迎えてくる。
その中で特に高齢の、白い髭を蓄えた老人が「本日もお勤めお疲れ様でございました」、と丁寧に白哉を迎える。朽木家に先々代から使えている年寄・清家信恒である。
腰を曲げ、あくまで穏やかな物腰と風貌の人物だが、白哉が小さく「ああ。戻った、清家」と言ってこの老人の傍を通り過ぎた時、ぶ厚い眼鏡の奥で双眸が細まった。
「お仕事は如何でしたかな、何やら、お召し物が湿っておられるようですが、戦闘で返り血でも浴びなさいましたか」
目ざといものだ、と白哉は思いつつ、事実を言う由も特にあるまいと考えて、
「・・・いや。不慮の事でたまたま汚れた。隊の下の者が洗ったのだ。大事ない」
とだけ、答えた。
「そうですか」
白哉は履物を脱ぎ、平素と変わらず自室へと向かった。
清家も去る若当主の背に頭を下げると、普段通り、使用人らに指示をだした。

そして僅かに鼻をくん、と鳴らして、その場に残った空気を嗅いだのだった。



 ●



奇妙な一日だった、と白哉は思う。自室で着替えながら、脱いだ死覇装のちょうど墨をかけられた辺りを見てみれば、なるほど、先程清家が指摘したように僅かばかり湿っている。しかし乾いたなら墨をかけられたとは思えぬだろう。もともと黒地の布に墨の染みは目立たないとはいえ、あの娘、染抜きの腕が良かったようだ。

夕刻を過ぎた邸宅は夕食の時間が間もないせいか、遠くに多くの者が忙しくしている気配がある。この朽木の家で、この古い家を常に磨き維持する使用人たち。
滑稽なものだ、と白哉は目を細めた。
上流貴族とされる朽木家の本家は、両親無き今は自分ひとり。この一人の身を世話しこの家一軒を維持するために、白哉も把握していない程多くの者が働いている。その贅を多くの者は愉悦と見ることだろう。それが貴族、尊い血筋に産まれた者の特権なのだ、と。
しかし今、その特権とやらに滑稽さを感じるのはこの家の主人が自分のみだからだろうか。それとも自分が貴族以外の者と仕事上の立場を同じにするようになったせいだろうか。白哉は考え込むでもなく、ぼうっと広い自室を眺めてるのだった。
そして今日、自分が訪れたあの戌吊の家を思った。普段馴染みのない平民の家、しかも流魂街下層の家である。しかしながら、何故に自分はあのような場所で、あのような状況に安らぎに似た感情など覚えたのか。古い家、狭い庭、平民達、そして久方ぶりに嗅いだあの土の匂い。全てが自分とは掛け離れていた筈の物に、自分の緊張を解いたのは何故だったのか。

自分の心を探っても答えは出ない。白哉は混沌とした感情を持て余しながら、淡い闇に包まれはじめた庭へと降りた。
そこには数多くの庭木に混じり躑躅の木も植えられている。ぼうっと光を放つように、桃色の花が咲いていた。薄暗いとはいえ、先程と同じ種類の躑躅に見える。白哉は大きく開いた花を一つ手折ると、先程緋真たちとそうしていた様に口に含んでみた。
舌先にじわりと滲む僅かな蜜の味はすぐに消えてしまう。先程吸った蜜はもっと長く上品な甘みを残した筈だが。或いは、みかけが同じ木でも、あのあばら家に咲いていたものと種類が違うのだろうか。ならば合点がいく、と白哉は思った。

夕闇に沈む庭は空気に湿気を宿し始める。蜜を無くした冷たい花弁を手に、白哉は佇み目を閉じた。
あの躑躅の蜜の味を、あの家のやわらかな空気を、あの緋真という女性の香りを思い出そうと、忘却へと仕舞いこまれようとした記憶を手繰った。


思えばただ一度の邂逅を惜しいと思ったのは、自分にとってこれが初めての事ではなかったか。


硬く閉ざした心に投じられた石はまだ小さい。
しかし確かにその波紋が大きくなっていくことを、白哉は未だ知らずにいた。



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