『 宵闇に狂ふ 壱 』
  − brother sun, sister moon 3(of fear) −




「はっ、はっ、はあ・・・」
吐息はすぐに白い湯気となり、幾つも幾つも空気に溶けていく。
長い冬が続いていた。
緋真は薄い角巻を羽織り、脛までの雪をかき分けて、帰路を急いでいた。腰が痛いというすゑの代わりに、使いに出ていたのだ。
寒さのため頬は赤く染まり、耳の感覚もすでに無い。足に纏わりつく雪のため、うすい脚半が濡れていく。やがて足の感覚が無くなるなか、一心に歩みを進めていた。

粗末な家屋が立ち並ぶここ犬吊の軒も雪に埋まり、今だけは一様に白く覆われ美しい。その並びを抜け、集落から少し離れた自宅へと戻る。
今朝がた孝太と幸枝が懸命に手伝いをしたお蔭か、入り口の近くでは積もった雪も除かれ、歩き易い。われ知らずほっと息をついて、緋真は玄関の戸を開けた。途端にぱたぱたと、子ども達の足音が聞こえる。
「おかえり、緋真ちゃん! 外、寒かったでしょ」
「今ね、おばあちゃんが葛湯作ってくれてるのよ。砂糖ぬきだけど」
出迎えた孝太と幸枝にただいまと返しながら、緋真は土間で足下の雪を払う。さっきかまくらを作っただの、雪がサラサラでなかなか山にならなかっただの、二人は他愛ない話をしながらまとわりついてくる。脚半を脱ぎながら笑顔で受け答えしていた緋真だが、幸枝のひと言で手が止まった。
「さっきね、白哉さまがきてくれてたんだよー」
「・・・えっ」
思いがけない人の名前に、一瞬緋真の頭は真っ白になる。そんな様子に気付かず、なおも幸枝ははしゃぎ続けた。
「でね。今度はあたしに漢字のご本貸してくれたの」
「ちがうだろ! 幸枝だけじゃなくって、おれも使うんだよ!」
「いーじゃないの、どうせ孝太はあんまり勉強しないんだしー」
「だ、だからー、今度からしようと思ってたんだよ!」
「・・・孝太、幸枝も。喧嘩しないのよ?」
いつものように二人をなだめながらも、緋真の頭は、自分の不在時に白哉が来訪していたという事実に動揺していた。凍えた指先を温めるふりをして震える手を握りしめながら、緋真は平静を装おうとした。

堅い歩みで台所まで行くと、孝太の言った通り、すゑは忙しげに葛湯を作っていた。
「おばあちゃん、ただいま」
「おや、お帰り。あの子達から聞いたかい? 白哉さんが来たって」
「うん・・・」
「昼過ぎにふらっと来て、玄関先で本だけ置いて帰っていったよ」
・・・本だけ、置いて。否応なしに、緋真には前回来た時に交わした約束を思い出す。
『聞いてもらいたいことがある』、衝動だけで自分が言い出した、しかし言わずにはいられなかった願いを。
なかば一方的に頼み込んでおきながら、せっかく白哉が来てくれた時に不在だった非礼が、緋真の心に突き刺さった。

一心に鍋の中身をかき回しているすゑは、「で、ほら。あんたへの本だって」と、野菜の載っている台を顎で指した。見ると、そこには一冊の本。緋真が手にとって題名を確かめると、『甘味材料ノ製造工程 甘葛カラ水飴迄』とあった。
「これって・・・」
「んー? なんでもね、『手近な材料で甘味を得られるのなら良いだろう』、ってさ。・・・あの人なりに、生菓子を断られた事、気にしていたのかねぇ」
生菓子の件。白哉が菓子を持参して来た際、緋真が『子どもたちにとって過ぎた贅沢だから』と強く断った件が思い出された。あの時、子どもたちがやはり甘いものを欲しがっていた事を、白哉は憶えていたのだろう。
緋真がぱらぱらと本をめくってみると、麦やら樹液から甘い成分を摂る技術が書いてある。この流魂街でも簡単に手に入れられる材料ばかりだ。
「これなら、わたしでも簡単にあの子たちに甘いおやつを作ってあげられるわね」
「うん。アンタ今度暇をみて作ってやりなよ」
そしたら今日のみたいじゃなく甘い葛湯にありつけるしさ、と、すゑは笑った。
「そうね・・・、うん、そうする・・・」
緋真は手の中の本を見ながら、思わず白哉が甘味の本を探している様子を想像して微笑んだ。・・・そういう、人なのだ。無表情で、無口で、本当なら自分たち下層の人間なんて言葉を交わすことすら叶わない高貴な人。なのに気を遣って上等なお菓子を持ってきて、こちらの事情で受け取れないというと、わざわざ甘味の作り方を探してきてくれる人。そしてあの時、自分に積もるあえかな雪屑を、やさしく払ってくれた人・・・。

「・・・」
すゑは鍋を火から降ろすと、俯いて何ごとか考えている緋真をちらりと見た。
「・・・会えなくて、残念だったかい?」
「!?」
驚いて顔を上げた緋真の顔は赤い。けっして外にいた為ではないのを、すゑは見て取った。
「・・・っ・・・」
自分でも自分の挙動に驚いている緋真を見やると、すゑは子供たちの分の湯飲みを盆に取った。そして、緋真の分をひとつ残して、
「脚半と足袋、釜戸のとこに吊るしておきなね。じゃないと乾かないよ」
ふっ笑いながら厨房を出て行った。途中、緋真の肩をぽんと叩きながら。
「うん・・・」

残された緋真は、すゑの言っていた通りにまだ火の残る釜戸の近くに足袋やらを架けた。
自分のために用意された湯飲みを手で包むように持つと、じんわりと葛湯のぬくもりが手のひらを温める。釜戸の近くにしゃがみ込むと、寒さに縮こまっていた体と心がほぐれ、緋真は大きな溜息をひとつ、吐いた。

「・・・ばかだ、わたし・・・」
小さな声で、自分に諭す。
不在時に、あのひとが来ていた。ふたたび、その事実が緋真の心に去来する。そして、ふたつの感情が同時にせめぎ会う。

会いたいのに、会えなかった。
会いたいのに、会えなくてほっとしている。

矛盾する心が緋真を責める。自分は以前、秘密を打ち明けてしまいたいと思った。このまま汚い真実を話さずに、うわべだけ取り繕った自分を見せているのは耐えられず、しかし一方ではその真実を話さずに済んで、・・・安堵している。
なぜ自分はただ本を貸し借りしているだけの、しかも途方もなく高貴な身分の白哉に拘泥しているのか。なぜこんなにも心囚われているのか。

緋真は、おぼろげに気付き始めていた。それは、恋なのだと。

「・・・そんなこと、赦されないのに・・・」
呟いて、緋真はぎゅっと膝を抱えた。戒めのように、唇を硬く噛み締める。

・・・白哉は貴族、しかも四大貴族の当主という立場である。そもそもこの様に流魂街の住人である自分達と親交を持つこと自体が異例のことなのだ。
そして・・・恋うことなど、赦される筈が。なにより、己れを赦せはしない。
緋真は体を丸めながら、湯飲みを持つ自分の両の手を見つめた。製陶と日々の仕事で荒れた手。お世辞にも綺麗な手などとは言えない。・・・そして、見た目以上にこの手は・・・穢れているのだ。

緋真は手の中でぬるくなった葛湯を飲み下し、意を決したように立ち上がった。

居間に足を運ぶと、そこにはすゑだけがいた。湯飲み茶碗を片付けている。孝太と幸枝は既に外に遊びに出て行っているらしい。緋真は少し迷ってから、声を掛けた。
「・・・ねえおばあちゃん。今夜、わたし、一人で行くよ」
「やめな」
緋真が言った言葉に、すえは鋭く反対した。緋真はふるふると首を振る。
「ううん。大丈夫。だって関節痛・・・酷いんでしょ?」
「こん位何でもないって。アンタ一人で行かせる訳には・・・」
「大丈夫よ。おばあちゃんに無理させる訳にいかないもの。それに・・・あそこに行くのも、慣れたから」
だから平気、そうすゑに、そして自分自身に言い聞かせて、緋真は下を向いた。
「緋真・・・」
「だから、おばあちゃんは早く寝ていてね? じゃないと治るものも治らないから。それじゃ。わたし、これ洗うね」
気遣わしげなすゑに無理に笑って、緋真は話を無理に終わらせた。そしてさっと盆を取って、小走りに台所へと去っていく。

「・・・緋真・・・・・・」
すゑは呟いた。
実のところ、外出するには今日の腰の痛みは酷すぎる。緋真が言うとおり、一人で行って貰った方が良いだろうか・・・。
ぱたぱたと響く足音を聞きながら、すゑは眉間に皺を寄せて考え込んだ。その間に、再びずきりと腰に痛みが走る。冬の頃、しかも今日のように風上に重い雲がある日はいつもこうだ。

また、雪になるのだろうか。


 ●


同日、夕刻。冬の太陽がはやばやと地平に接した頃。
白哉は朽木家の練武場にて、静かに黙想していた。

開け放たれた襖からは冬の外気が流れ込んでくる。しかし白哉は寒さに震えるどころか、うっすらと額に汗すら浮かべていた。
冷たい床にぴしりと座した正面には、抜き身のままの彼の愛刀、千本桜が横たえられている。刀を前に黙想することにより己の魂を研ぎ澄ませる――――これも、ひとつの精神修練であった。

この頃、白哉は卍解に至る一歩手前にいる。勿論これは三席としては異例の能力であった。
そもそも白哉の剣の才は、ただの肉体的な能力というよりむしろ、すぐれた思惟に拠るところが大きい。無論、もともと剣の技能が高い朽木の血筋である事や、彼の鍛錬を厭わぬ努力もある。しかし、血筋と努力により至る境地には所詮、上限があるのだ。
白哉は更に、精神の研鑚を重ねることにより、より高い水準の剣技を身に付けるに至ったのである。

しかし卍解となると話は全く異なる。生来の技量、肉体の技量、そして精神の技量。これら全てを高みにまで昇らせても手に入れられるとは限らない。卍解が“究極の技”と呼ばれる所以であった。

白哉は細く息を吐いて、瞑目を解いた。その拍子に汗の玉が額を伝う。膝に揃えていた左手を伸ばして刀を手に取ると、やはり先程と変わらず沈黙したままである。
われ知らぬうちに、彼は嘆息した。

――死神となってこの斬魂刀の名を知り、始解に成功し具象化を為し――そこまでは順調だった。白哉は卍解修業を開始した当初、程無くして達成の道筋をつけられるだろうと考えていた。確かに大きな目標を設定して修練を重ねるうち、みるみるうちに己の肉体も精神も高次まで高められたのを感じる。しかし、あと一歩。卍解に至るまでには、何かが足りぬ。刀の化身を屈服させることが叶わぬ。
ただ力で愛刀に向かうのみでは足りぬのか。白哉は方法を変えた。そして、時間を作っては練武場に篭り、精神を研ぐことに努めて一月。まだ、一月に過ぎない。しかし、それが今後途方も無い道程になるであろうことを、白哉は感じ取っていた。
兎に角、先が見えないのだ。このまま研鑽を重ねれば習得できるのか、それともそもそも己には卍解に至る素養が欠落しているのか――それすら分からず、光が見えぬままに修業を重ねているのであった。

そして、この日も解決の見えずに夜が来た。


稽古場をあとにした白哉は湯浴みを終え、自室にて寛いでいた。夕日が沈んで久しく、あたりは宵闇に包まれはじめている。 書物に目を通していると、文机を照らすか細い灯りが揺れる。なかば無意識に白哉が顔を上げて灯火を見やると、視界の端に鮮やかな紅色が映る。
いつぞや、あの流魂街の少女から譲り受けた紅葉だった。栞として譲り受けたものの、本の間に埋もれさせてしまうのも勿体無く、こうしていつも文机の端に置いてあるのであった。
ふと何時ものように手に取れば、紅葉に彩られた晩秋のことが思い出される。そしてこれを呉れた少女――緋真のどこか憂いを湛えた微笑みも。

今日訪れた際、この紅葉のもとの主は不在だった。せめてと、あの娘のために探した本を置いてきたが、果たして実践して子どもたちに甘味を馳走するであろうか。流魂街の暮らしはよくは知らないが、あの本に書かれている原料ならば比較的容易に手に入れられるだろう。
白哉には、以前に緋真に会った時の約束が思い出される。あの娘は――緋真は、初雪が降ったあの日、聞いてほしいことがあると、そう言っていた。もし今日彼女が外出していなければ、果たして何を語っていたのであろう。白哉はあの時のひどく真摯な、ひどく悲しげな瞳を思い出す。なにやら思いつめた様子だったのが、白哉の心に小さく引っかかっていた。
そう言えば―――白哉は自問する―――自分はなぜ、あの時、次に会った際に聞くなどと言ったのだろうか。時間はあった。雪なども問題ではなかった。引き返してゆっくりと話を聞いてやることも可能だった筈だ。
もしや自分は。・・・無意識に、『約束』を求めていたのではなかろうか。また、あの家に・・・あの者たちに会いに行く約束を?

「白哉様」
ふと、襖の向こうに気配が生じ、清家の声がした。白哉が入室するように促すと、普段よりも幾分うやうやしく清家が姿を見せた。失礼致します、と礼をしたまま、頭を上げようとしない。
「どうした」
怪訝に思った白哉が声を架けると、清家は下を向いたまま話し始めた。
「・・・ひとつ、ご忠告申し上げることを御赦し願いたいのです」
「忠告?」
いきなり来たと思えば不躾なこという。普段の清家とは異なる様子に、白哉は訝しんだ。清家は訥々と、感情を強いて押さえたように続ける。
「白哉様が見聞を広められるのはまこと結構なことでございます。・・・しかしながら、余りに度が過ぎるのも如何なものかと、この老体は時折心配になるのです」
「何が言いたい。・・・はっきり申せ」
奥歯に物をはさめたようなもの言いに白哉が促すと、清家は頭を上げて座り直した。じっと、眼鏡の奥から白哉を見据え、改めて語りはじめる。
「・・・白哉様は、瀞霊廷でも時折噂に上る、犬吊の陶器工房をご存知ですかな。なんでも、まれに良い花器を卸すそうで。主人である老女と・・・そこで働く若い娘の腕が良いそうですな。行き場のない子らも引き取り育てているとか。いや、結構なことです」
「・・・」
白哉は答えなかった。清家が語っているのは間違いなくすゑ達のことだ。・・・何ぞ、調べたか。そして下層の物と縁を持つなと、この忠臣は諭しに来たのか。それにしてはもって廻った言い方に、白哉は不審を感じた。主人の心を知ってか知らずか、清家は顔を上げ、淡々と続ける。
「ですが・・・所詮は下賤のものども。特にその娘などは・・・売るものは陶器のみとは限らないのではないのですかな」
「・・・どういう意味だ」
「戌吊で余剰の子等を支えるはさぞや難儀なことでしょう。その娘、春を鬻(ひさ)いで・・・」
「清家」
怒気を孕んだ声が遮った。白哉は床の間の刀にちらりと目をやり、存在を確認した。
「邪推でその様なことを申すとは、覚悟あってのことであろうな?」
「邪推ではございません。この清家、根拠の無いことは申しませぬ」
一歩も引かずに清家は応じた。場合によっては白哉が自分を斬るつもりだと知りつつも。
「・・・なんだと?」
「人を使って調べさせました。あの緋真という娘、折につけ花街の通りをうろついておるそうでございます」
「な・・・っ!?」
「おそらくは夜鷹でございましょう・・・遊里を冷やかしに来た下郎の袖を引く、まこと浅ましき者です」
「・・・何故、その様なこと、貴様が・・・っ」
思わぬ事を思わぬ者から告げられ、白哉の脳裏は震える。自身でも憶えがない混乱と怒りに戸惑いを覚えながら、なかば無意識に床の間の刀を手にする。清家はこれを見ても臆さず続けた。
「出すぎた所業かとは思いましたが、この私が白哉様と親交のある人間を知り尽くしておくはあくまで義務。素性卑しき人間を近づけるは貴方様の輝かしい道の疵となりましょうぞ」
「私がつきあいを持つ人間は私が決める! 貴様に口を挟まれる謂れなど・・・」
「お言葉ながら!」
小さな清家の体のどこから、これだけの声量が出るのか。かつてない苛烈な声で清家は白哉の言葉を遮った。
「お言葉ながら・・・この清家、亡くなられた先代様の代より仕えさせて頂いております。無論、貴方様がお生まれになる以前からです」
「・・・」
「白哉様は朽木家当主であると同時にゆくゆくは権威堕ちつつある四大貴族をしょって立たれるお方。・・・ご存知の筈です、志波が上位貴族から抜け、四楓院までもが不祥事に穢れた今、貴族の権勢を示さねば世の道理というものが成り立たぬ事を! それを担いなさる貴方様がこれ以上下賤の者と接触を持ち、栄えある人生をお汚しなさいまするな! ましてや金で身体を売る卑しき女などと!」
清家の強い言葉に、一瞬白哉は言葉を失った。目の前の老いた従者は怒りと悲しみすら含んだ瞳で、迷い無く白哉を射るように見つめる。

「・・・っ・・・、あの娘は、あの娘はそんな女ではない!」
白哉は大声を上げると、清家を押しのけて大股で部屋を出した。手には刀を握り締めたままである。
「どこに行かれます!! 目を覚まされなさい、白哉様! お戻り下さい!」
遠ざかる白哉の背に向かい、清家は声を張り上げた。
「白哉様!」
おそらく聞こえていても応じる気はあるまい。それでもうす暗い廊下で白哉の背中が見えなくなるまで、清家は主人の名を呼んだ。

・・・やはり戻る気配がないのを清家は悟ると、どっと流れ出る汗とともに溜息を吐き出した。珍しく、感情的になった白哉のなまの感情に、今更ながら恐れを抱いた。だが、如何に主人の逆鱗に触れようとも、自分とて譲歩する訳にはいかぬ。
「どうぞお忘れ召されるな・・・白哉様」
清家は既に去った当主に願いながら、白哉の文机まで歩み寄った。なかば無意識に置かれていた紅葉の葉を手に取る。清家にとって、それはただ古びた季節の遺物としか映りはしない。

「貴方様の双肩には、堕ちつつある貴族の将来が懸かっている事を・・・」
そう呟いて白哉の消えた闇を見つめ、手の中の紅葉をぐしゃりと握り潰した。



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