(※戦闘描写に若干の流血表現があります。苦手な方はご注意を)

『じじさま、じじさまのように強くなるにどうしたらよいのでしょう』

白哉が未だ幼少のころ。彼は六番隊隊長である祖父、朽木銀嶺に訊いたことがある。
三尺ニ寸の竹刀をようやく正眼に構えられた時分のことであった。



『 春の嵐 壱 』
  − brother sun, sister moon 4(standing alone) −




当時、稀な非番の時間を割いて孫の稽古をつけていた祖父は、厳しくしかし的確に剣の道を示した。

最小限の動きによる圧倒的な威力の打突。朽木家に脈々と受け継がれた武道の哲学はある種の頂点とも言えた。例えばその闘気、例えばその静謐。相対するだけで平伏したくなるような気高さで威圧する。
そも、単純に勝負に勝てることを強さとは言わない。精神を練り上げ、身体を鍛え、更にその両端を併せ研ぎ上げ初めて刃は握られるに足る鋭さを得る。
祖父はこの時、身体的には絶頂を過ぎ去って久しい。だが精神は肉体の限界をも越えて円熟の極みにある。その意味に於いて、六番隊隊長を務める祖父は間違いなく護廷屈指の強さを誇っていた。
白哉は祖父の最も近くで、すなわち祖父に対峙することにより、一族の剣をその身に刻んだ。防具を通しても痛むほど打ち据えられた白哉はすぐに息を上げたが、決して稽古を止めたいとは思わず、鍛錬に励んだ。
祖父の美しい剣筋に見惚れ、一息入れた際、尊敬の眼差しで彼は師に訊いた。

『わたしもいつかはじじさまのように強くなれるでしょうか。六番の隊長さまになれるでしょうか』

竹刀を構えていた時とは打って変わって穏やかな目をした祖父は、ふむ、としばし悩んだ後に口を開いた。
『そうだな・・・強くなる、か。第一には、精進に務め続けることだ。素振り一本とて決して蔑ろにしてはならぬ。集中せねばそれは単に棒を振り回しているのと同じだ』
『はいっ』
『次に、良い師を持つこと。自分に甘え独学に頼るな。伝統と流儀に則って初めて学べることは多い』
『なら、わたしにはじじさまという師がいるので大丈夫ですね』
その点については何の憂いもない、とばかりに白哉は無邪気に自分の『師』を見た。祖父は微笑を返すと、白哉の手を取った。
『あとは・・・これだ』
右手の篭手を外すと表われたのは、幼い手には似つかわしくない肉刺と胼胝だらけの掌。大きな手がそれを包み込んで、軽く拳を握らせた。

『この手で守りたいものを見つけるのだ』

『守りたいもの・・・それは、魂魄のことですか? それとも死神のおきてですか?』
『それは守る“べき”ものだろう。私が言いたいのは、お前が心から守り“たい”と欲するものだよ』
『・・・とゆうと?』
違いが解らずに首を傾げて自分の手を見つめた。死神に憧れる白哉少年にとっては、かの職の義務は即ち自分の欲求と同じだった。祖父はふっと笑うと、腰を屈めて孫に視線を合わせる。
『私にもお前にとってのそれが何であるのかは分からんよ。・・・いずれお前も自分で見つけるだろう。身を賭して、自らの立場を投げ打って、・・・すべてを打ち捨ててでも守るべきものを見つけよ。きっと思いもしなかった力が出てくる。それが真の強さだ』
『真の強さ・・・。でもじじさま、死神のひとが自分の立場を捨ててはだめなのではないですか? 強くなる前に総隊長さまにお叱りを受けてしまいます』
『まあ、本来はそうだな』
普段から厳格に死神の矜持について説いてきたのが仇となったか。祖父は困ったように苦笑うと、白哉の頭に手を乗せた。
『何も律を犯せという訳ではない。つまりは、敢えて規律を破るような勇猛な心が無くば凡庸の輩に至るが関の山、という喩えだ』
眉間に皺を寄せてゆうもう、ぼんよう、と祖父の言葉をぶつぶつ復唱した孫は、しばし腕組みして考え込むと、眉間に皺をよせて結論を出した。
『強くなるって、つまり、むつかしいのですね』
『そうだな』
口をへの字にして幼いなりに思案に暮れる白哉に『難しくなければ皆が隊長になってしまい困るであろ? だから白哉は抜きん出て強くなれば良いのだ。爺の言った通りに努めればきっとお前も強くなれる』と小さな背をぽんと叩くと、ようやく彼も納得したようであった。

清家が茶を用意して気を揉んでいるぞ、と先を歩く祖父に、白哉は最後に一つだけ気になっていた事を訊ねた。

『じじさま。じじさまの守りたいものって何なのですか?』
背中に問いかけられた祖父は少し勿体をつけた後、振り向き応えた。

『・・・秘密だ』

珍しく破顔したその顔は強く白哉の印象に残り、後年、彼はその視線が自分に注がれていた事にようやく気付くのである。


 ●


久方ぶりに祖父の夢を見たように思えて、白哉は重い目蓋を開いた。

見えたのは何時もの通りの自室の天井。障子越しに淡い朝日が差し込んで、徐々に覚醒を促す。
白哉は身を起こすと、醒めやらぬ夢の残滓をぼんやりと想った。他界して久しい祖父の幻影。思えば、尊敬していた師が夢に現われるのは、幼い頃よりきまって自分が何がしか思い悩んでいる時ではなかったか。統学院で同期との距離の測り方が分からなかった頃、朽木家の当主の座に着いた頃、・・・
何事においても冷静に、そつ無く役目を果たしてきた白哉とて、しかし同時に一人の青年である。凛とした涼やかな目元の下に、人知れぬ感情の揺らぎが起こらなかった訳はない。
そして、現在の白哉も静かな懊悩に囚われているのである
ふと目を閉じると、廊下に清家の気配がない事に気付く。自分が当主となって以来、目覚める前から毎朝欠かさず側に控えてきた家老が、みずから律を逸して早十日目。

・・・即ち、緋真のことで対立し、保護したあの娘が帰宅してから十日目ということになる。


白哉がいつものように身支度をし、邸宅を出る段になってもやはり清家は姿を見せなかった。敢えて使用人に聞くまでも無い。自室にしている離れで未だ蟄居しているのであろう。たった十日のことだというのにまるで永い星霜を経たように感じ、無為なおかしさに嘆息する。

「お疲れでございますか」
目ざとくも様子を見ていた使用人の一人が訊ねる。青年の目に純粋な心配を見て取り、白哉は首を振った。
「大事無い。それよりも留守を頼むぞ」
はい、と固い返事をして彼らは頭を下げた。当主と老中の諍い、奇妙な客の闖入、そしてその後の老中の不在。暗い雰囲気を纏っていた使用人達はしかし、当主直々の言葉により自らの役を思い出す。
いつまでも彼らに見送られながら、白哉は自隊の隊舎へと歩を進めた。曇天がやけに気鬱に感じられるのは、自らの懊悩の所為であるのか。
無意識に、最後に見た緋真の姿を思い出す。過去の重い鎖に引きずられ、眠りながらも苦悶の表情を消すことのなかったあの細面を。

あの日、緋真はすゑが自ら背負い連れ帰ったという。勤めより帰宅して清家に問い質しても押し黙るばかりで、答えを返さぬまま彼は自室に篭った。抗議であるのは言うまでも無い。実に単純な反抗ではあるが、白哉には思いのほかこれが堪えた。自分が生まれるよりも以前からこの家に仕え、年齢的には若造に過ぎぬ当主をよく補佐し、助言し、時に叱咤してくれた。早世した両親よりも永く自らと共にあった忠臣。
だが、強固だった筈の糸はこうして容易く切れた。
自分がすゑらと知己であることを清家に責められる理由などない。ましてや緋真とのあえかな繋がりを独断で調べ干渉される謂れなど。しかし同時に、青年なりに長く貴族として生きてきた白哉は清家の云う道理をも同時に理解してしまう。
貴族としての本分。四大貴族の当主の重責。これまで身に刻み込んだそれが、白哉の心を鋭利に削る。

加えてここ数日間は六番隊の業務が多忙を極め、しばしば夜を徹しもした。本来は副隊長の木城が担うべき仕事が何故か自分に廻され続けているのだ。周囲の者に訊いてもそら恍けられるのみで、埒があかない。理由も分からずにただ黙々と文机に向かうことだけが白哉に許された業務だった。・・・例えそれが彼にとってどれだけ厭わしくあっても。

『じじさま、私はどうすればよいですか?』
幼少の頃、自分はよく祖父に訊いた。竹刀の捌きはどうすれば良いか、来客の際に何と言って挨拶すれば良いか。ありとあらゆる質問に祖父はその都度答えて白哉を安心させた。その祖父が身罷った時、清家がその役目を引き継いだ。しかし今、白哉の傍で道を示す者はいない。
「爺様。私は強くなれません」
白哉は声もなく口元だけで呟いた。含まれた自嘲が意志を蝕む。私が守るべきものとやらは何なのだ。畢竟、貴族の誇りに沿って生きることも叶わず、周囲の人間と折り合いをつけることもなく哀れに佇み、挙句には悔恨に身を削る少女の涙すら止めてやれなかった。何が貴族か。何が副隊長か。何が当主か。・・・私は、なにものをも為せていない只の馬鹿者だ。

一度結論に行き着けばこれまで自分を守ってきた虚構の鎧など容易く崩れ去る。歩みがこれほど不安定に思われたことはなく、自分はもしや、相応に参っているのやも知れない。


心が沈思の淵に立っていても白哉の肉体はどうやら隊舎に向かうのを止めなかったらしい。広大な建物を巡る長い白塀に沿って歩むと、やがて来客用の外門が見える。だが、今日はいつもと違い些か騒がしい。
「だーかーらっ、商売用の通行証じゃここは通せないんだよっ、帰れ帰れ!!!」
ふと目を遣ると隊舎の門衛が何者かと揉めているようだった。恐らくは物売りが隊に取り入らんとしているのであろう。白哉はそのまま特に注視もせずに手前の隊士用の門へ足を向けた。だが、視界の端に映った人影と声に思い当たって踵を返した。
「知り合いだって言ってるでしょ! だから、ここ通すか呼ぶかしてください!」
「大事な用事があるんだ。あの人に会わせて、お願いです!」
白哉がそこに見たのは、孝太と幸枝だった。すゑのもとで緋真と共に暮らす子どもが、屈強な門衛に必死で喰ってかかっている。気丈ながらも余程怖いのか瞳が潤んでいた。
「お前らみたいな流魂街のガキがうちの隊の席官と知り合いの筈ないだろうが。ホラ噴いてんじゃねえ! オラさっさと帰れ帰れ。でないと叩き斬るぞ!」
門番が刀の柄に手を掛けた瞬間、怒りの表情が見る間に驚愕の色に変わる。彼と子どもの間に、見慣れた死神が割って入っていたのである。
「あくまで脅しとはいえ我が六番隊の者が年端もいかぬ相手に刃を向けるとは、・・・感心できぬぞ」
突如として目の前に現われた白哉を視認すると同時に、声から発せられる霊圧に門衛は思わず小さく悲鳴を挙げた。
「あ・・・びゃ、」
「白哉さま!」
怯えて固まっていた孝太と幸枝は白哉の姿を認めると、その表情はみるみるうちに緊張が解けていく。白哉はさり気無く二人を背に隠したまま、門衛を見据えた。 「あ、あの、朽木三席。この二人が正式の面会申請も経ずに三席に会わせるよう煩くてですね。恐らくは押売の類でしょうし、それで・・・」
「この子らは私の知人だ。いらぬ気遣いは無用。・・・幼子相手に抜刀しかけた事は私の胸のみに止めておく」
白哉が冷たい一瞥をくれると門衛は緊張が解けたかのようにがくりと息を吐いた。白哉はそのまま孝太と幸枝の背を押し、無言のまま隊舎から離れさせた。


白哉は少し歩いて裏路地に入るよう孝太と幸枝に促した。ここならば大きな通りからは死角で、二人が要らぬ注視を受けることもあるまい。
「ごめんなさい。あたし達、騒いで白哉さまに迷惑掛けて・・・」
「あの人が絶対に会わせないって言うから、おれ達かっとなっちゃって」
しょんぼりと謝る二人に、「大丈夫だ」と白哉が肩に手を置いてやると、幾分かは安心したようだった。
「何故、ここに来たのだ?」
咎めるようなもの言いにならぬよう極力務め、白哉は訊いた。二人は一瞬顔を見合わせると、幸枝がごそごそと懐を探った。そして、繊細な宝物のように慎重に一通の書面を差し出す。ある予感が白哉の胸を打った。
「これをね、緋真ちゃんに頼まれて渡しに来たの。瀞霊廷の中のお家に注文の器を届ける時、確かにお渡ししてって言われて」
「あの娘が・・・」
彼女達の家で使っているあまり質の良くない和紙に、か細い字で『朽木白哉様』と表書きしてある。いつぞや、自分の名を書いて示した思い出が白哉の心をよぎった。
孝太と幸枝の前ではあるが、白哉は躊躇いなく紙を開いて中身を目で追った。小さめだが端正な文字でひとつひとつ、丁寧に綴られていた。まるで、一文字一文字を紙面に刻み込むような慎重さで。

まず型通りの挨拶があり、次に介抱への丁重な礼。貴族の文ではまず見られない率直な書き方だが、真摯に感謝を綴っていた。その几帳面さからいくばくかの余所余所しい雰囲気が感じられ、白哉の心が僅かに波立った。そして文も半ばを過ぎ、彼女の過去に関する言葉が続けられる。

“ ・・・ 先日お話申し上げた件、さぞ軽蔑なさったことでございましょう。
  私は、浅はかで愚かな女なのです。
  お願いです。どうぞこのような醜い心根の、下賤な娘のことなどお忘れください。
  お忘れになって、ご自身の往くべき道をお進みください。
  それが、私のなによりもの願いです。

  貴方様の輝かしい道行きに関わってしまい、本当に、お詫びのしようもございません。
  今まで本当にありがとうございました。祖母も孝太も幸枝も、心から感謝しております。
  卑しき身ではございますが、いつも影ながら白哉様のご多幸をお祈り申し上げています。

                                どうぞお元気で。  緋真”

文が終わりに近づくにつれ、字がほんの僅かに震えを生じていた。結びの部分で半紙が控えめに撓んでいる。恐らくは、水滴が落ちた痕。白哉はあの夜、緋真を抱き締めて拭った涙を思い返していた。あの娘は、この手紙をしたためながら、やはり熱い涙を零していたのだろうか・・・。

白哉はただ黙して、彼女の涙の痕跡を見つめていた。その視線から窺い知れる険しき想いに耐え切れず、孝太はたまらず口を開いた。
「あの、白哉さま」
不安げな声に気付いて白哉が少年を見下ろすと、孝太は意を決したように問いかける。
「また、ご本貸してくれますか?」
「本だけじゃなくて、また遊びに来てくれますか?」
倣って幸枝も訊ねる。恐らくはこの手紙の内容を知らず、しかし緋真とすゑの様子に何かを感じ取っているのだろう。目は真剣で、ともすれば白哉の袖にすがりつかんばかりの勢いだ。
「来てくれますよね、ね?」
「なぜだ」
「え?」
必死で訴える二人を制するように、白哉は問うた。
「お前達は私を心易いものとは決して思っていなかったろう。何故そのように熱心に招く?」
そもそもが堅苦しい貴族の白哉と天真爛漫な平民の子たちである。まして白哉は幼子の機嫌をとるでもあやすでもない。実際、書を与えに訪れても、孝太と幸枝は常に緊張し白哉を畏れている様子だった。
「(ココロヤスイってなに?)」「(ええと・・・付き合いやすいってことじゃないか?)」
孝太と幸枝は白哉の問いにきょとんとした後、何やらごそごそと話し合い、深々と頭を下げた。
「あの。その。・・・ごめんなさい。ほんとのこと言うとね、最初はちょっと怖かったの。でも今は、怖いよりもずっとずっと優しい人だと思ってる」
「白哉さま、珍しいこと教えてくれるし、おれたち楽しいよ」
太陽が廻る仕組みや難しい漢字や・・・、孝太と幸枝は白哉とその書物から学んだ事項を一つ一つ挙げていく。「それに、」幸枝が少し迷った末に付け加えた。
「白哉さまが来ると、緋真ちゃんが嬉しそうだったから」
「・・・」
その名を訊いて、白哉の思考が止まる。二人は彼女の様子を思い返しているのか、俯きながら続けた。
「緋真ちゃん、最近ずっと元気ないんだ」
「元気がないっていうか、焼き物の仕事はものすごく頑張ってやってるの。あたし達にもいつもと同じようにお話してくれるし。でも、なんていうか・・・」
「・・・かなしそう、なんだ」
それきり、孝太と幸枝は目を伏せた。
「・・・・・・」
押し黙る二人に白哉は手を伸ばし、ぎこちなくその頭を撫でる。とっさの事に驚いてこちらを見上げる四つの目を、白哉は努めて穏やかに見据えた。
「分かった。またいずれ、お前たちの家に行き緋真の様子を見よう。だからそう案ずるな」
それを聞いて安心したのか、孝太と幸枝は「ほんとに?」と顔を綻ばせた。白哉の両の手をそれぞれ握ると、「約束ですよ!」と念を押す。一瞬の逡巡ののち、白哉は頷いた。
「・・・ああ。分かった。今日のところはもう帰るがいい。余り長居をしては訝しがる者が居るかも知れぬ。ここから外門まではそう遠くない。・・・気をつけて行け」
「はっ・・・はい! わかりました!」
「じゃ、おれたち行くね。それじゃ、シツレイします!」
ぺこりと二人同時に頭を下げると、踵を返して示された方向に駆け出そうとした。ふと思い出して白哉は「おい」と声をかける。
「手紙を届けてくれたこと、礼を言う」
屈託無く笑って手を振り、少年と少女はそのまま外門の方向へと姿を消した。

白哉は彼らが去るのを見届けると、先程のやりとりで自分が不自然な応対をしなかったか思い返した。・・・あの時、子ども等を慰める為に吐いた『また参る』という嘘を、自分は平静な顔をして通すことはできただろうか。
手の中にあった緋真の手紙を再び見やる。綴られた別れの言葉は先に見た時と変わる筈はなく、悲痛のいろを湛えてそこにあった。

関わらなければ良かったのだろうか。空疎な念が白哉の心を支配する。
奇縁に身を委ねずにいたならば、自分はそのまま死神としての乾燥した生活を送り、緋真はすゑのもとで悩みながらも平穏に生活していたのかも知れぬ。
しかし、彼女に苦しみから感情を迸らせ、涙を流させたのは確かにこの自分なのだ。白哉は自問する。結局、自分はあの娘に何もしてやれなかった。貴族という安穏とした立場から、悲痛に満ちた緋真の生を眺めていただけではないのか。それが更に彼女の傷を増していたのではないか。・・・

嘆息でも悲嘆でもなく、ただどこか麻痺した頭は彼女の細い肩を思い描いていた。自然、初めて出会った日に咲いていた躑躅の香りが鼻腔に蘇り、記憶の残像がどこまでも甘い。
一期一会。記憶の花を辿るなか、ありきたりな言葉が白哉の脳裏に浮かんだ。これまで彼の人生で一度しか合間見えなかった者達など数え切れない。一度顔を合わせただけの使用人、すれ違っただけの死神達。境遇、あるいは生死によって簡単に道を分かたれる他人。その無常を白哉は心のどこかに留め置きながら生きてきた筈だった。
しかし、当たり前と思っていた条理が今は彼の心を刺す。流魂街の女、ただ偶然に築かれた脆い関係。失うことが予め定まっていたような儚い縁が崩れ去ろうとしている今、脆弱な自分は何も出来ずにいる。・・・このような弱き己れでは、いずれまたあの娘を傷つけるであろう。そして離別が緋真の希みだと云うのならば。
・・・もう、会うまい。
白哉は目を伏せ、手の中にあった手紙を懐に仕舞いこむ。思い返せば緋真の字を見たのはこれが最初であった。・・・そして、恐らく最後であるのだろう。
初めて感じる心の痛みが、言葉無き悲鳴が、喚いて暴れた。

小さく頷き、白哉は踵を返して隊舎の方向に向かった。隊舎の門が見えると、そこから息せき切ってこちらに走ってくる人影が三つある。
「朽木三席!」
「こちらにいらっしゃいましたか!」
背丈は白哉よりもかなり小さく、線も細いまだ少年の死神。今年入隊したばかりの新人である。その三名が礼など他所に青い顔でまくし立てる。白哉の背に、冷たい予感が奔った。
「副隊長がっ、木城副隊長が率いる分隊が・・・」
「虚の拠点討伐に向かった木城副隊長からの入電が、先程途絶えました。以来応答ありません!」
「討伐だと・・・?」
聞いておらぬ。白哉は口に上りそうになった言葉を飲み込む。副隊長が分隊を引き連れて現世に討伐? 自分はそのような重大任務がある事など、全く聞き及んでいない。・・・さては、無為な業務が自分に廻されていたのは副隊長らが遠征の計画に忙しかった所為か・・・
小さな憤りが白哉の脳裏を過ぎったが、すぐに事態の重大さを思って隊舎内に駆ける。慌ててそれを負う新人達に、矢継ぎ早に指示を出す。
「こちらの人数と派遣の時間は」
「副隊長・席官を含めて二十五名です。早朝四時に隊舎を発たれました」
「隊長はどちらに」
「それが、未だに連絡がつかず・・・」
言いづらそうな隊員の言葉に白哉は心中舌打ちする。恐らくは、妾宅で今も朝寝の最中だろう。真っ直ぐに地獄蝶の飼養舎に向かい扉を開けた。それぞれの籠で大人しく休んでいた蝶達が一斉にさざめき揺れる。
「座標に対応、かつ緊急開錠も可能な地獄蝶を貸せ。直ぐに私が単独で調査に参る」
「ですが、お独りでは・・・」
「副隊長が身動きを取れぬ程なら尚更何が待ち受けているか分からぬ。瞬歩を使える私のみで行き、原因を特定次第、即座に応援要請に一度戻る。いつでも派遣要請が可能なように総隊長及び七番隊、四番隊に人を遣れ」
「は、はいっ!!」
最早一刻も猶予も無い。引き出された漆黒の地獄蝶を伴って、白哉は抜刀した。
何もない筈だった室内に円形の襖が生じ、音もなく開く。眩い閃光とともに白哉を異界へと誘った。


 ●


白哉が目を開くと、そこは薄暗い山林だった。時間の誤差が生じていたのか、午前の明るい光に慣れていた目は日暮れ時に応じきれず一瞬目を見開く。冷えた空気が首筋を撫ぜた。

いやに耳に張り付くような湿った音が梢に反響している。喩えるならば獣が人の生肝を齧るとこのような音がするのではないか。
そして悲鳴と怒号。瞬時に予感が白哉を支配し、考えるよりも先に音のする方へと駆け出していた。無論、刀を下段からいつでも一撃を放てるように備えながら駆ける。視界の隅にいやに赤黒い夕焼けが映った。
走りながらも白哉は考えを巡らせて合点がいった。拠点を張るのは人間の多い地点と相場が決まってる虚が、何故このような山奥に居るのか。恐らくは、人里から攫った獲物をゆっくりと食むのだ。ゆるりと悲鳴と慟哭を挙げさせ、長い時間をかけて死に至らしめながら。鼻腔を侵蝕する血の臭いをすぐ近くに感じ、白哉は迷わず藪を飛び出す。
そこに混沌たる悪意を見た。

「副隊長! 木城副隊長!!」
「畜生、副隊長を放せ! ちくしょう、貴様あぁああっ!!」

報告を受けていた通りの数、副隊長と席官を含む二十五名全員が生存していた。但し、全員四肢を粉砕されて。肘から先と膝から先が皆、失敗した生菓子のようにひしゃげて紅に染まっている。その中心に、副隊長の木城がいた。地べたに伏したその腹に白い獣が乗っていた。姿形は犬のそれに似ているが、頸にぽかりと孔が空き、その向こうに痛みを堪える木城の顔が見えた。
「心配イラヌゾ、貴様ラモ後デユルリト消化シテヤル故」
人語で哂う。おぞましい声とともに口の端から一滴の黒い雫が落ちた。組み敷かれた木城の右脛に至り、先程の湿った音と共に肉が溶けた。これまで気丈にも堪えていた木城の口から、声にならない呻きが発せれる。右足は先から既に侵蝕されて、黒く爛れた肉が骨に纏わりついていた。獣はその傷口に牙を近づける。辺りに露出した骨を齧る硬質の音が響いた。
白哉は瞬時に状況を理解した。小さき形態だが、白哉をして知らず額に汗を浮かべる昏き霊圧。根本より我らを脅かす、虚。恐らくは討伐隊全員の四肢を破壊し、率いていた木城をじわじわとなぶり殺す算段だろう。
倒木が軋むような音と共に虚の下で木城の右足が膝から折れた。悲鳴と共に、傷口が酸に侵され腐食する臭いが周囲を侵す。隊員達の慟哭を受けた獣の表情が愉悦を帯びる。それが、ゆっくりと白哉を振り返った。

「アア・・・餌ガ増エタナ」

顎を越して首元まで裂けた口蓋が持ち上がり、にたり。目玉の抜けた眼窩が白哉の姿を確かに認める。
その場に居る者すべての絶望と恐怖を吸い込みながら、闇の眷属が笑った。


 ●


同じ頃、朽木邸では清家が自室で瞑目していた。
午前の陽光が障子越しに差し込みながらも、彼は光を背に、小さな身体を更に小さくしてなにごとか祈っていた。清家は白哉の身に今何が起きんとしているかを知らぬ。殊に主人の危険を知って祈っている訳ではない。ただ、自室に篭って以来、清家は食事と最低限の睡眠を除いて全ての時を白哉の将来を案じる為に奉げている。
「・・・旦那様。奥様。銀嶺様」
いま生きる人間の禍福について故人に願い託すなど『年寄りじみている』と揶揄される事すらある、清家の癖。しかしこの老中は、鬼籍に入って久しいかつての主人達と奥方にひたすら祈っている。まるで自分に残された寄る辺はこれだけと云わんばかりに。
「どうか白哉様をお守り下さい。児の頃にみずから志されたようなご立派な当主になられますよう。些かの曇りもあの方の往かれる道を汚しませぬよう。どうぞお守り下さい。どうか、」
高みを目指して鍛錬なされた努力が、幼き頃より眩しかった魂の輝きが、どうか失われないように。
ずっと見守ってきた、血を分けた息子のように大事なあの少年が、どうか心傷むことのないように。
「・・・どうか・・・」

掠れた呟きは部屋の静寂に押しつぶされて、祈りは儚く虚空に消えた。



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