(※戦闘描写に若干の流血表現があります。苦手な方はご注意を)



『 春の嵐 弐 』
  − brother sun, sister moon 4(testament and vow) −




白い獣が哂う。その白さに、白哉は幼きころ藪で出くわした蛇の腹を想い返す。まるで濡れているようにしっとりと柔らかそうなあの腹。彩り溢れた沃野のなかにあって、自然の理から外れたようなましろの虚無を。

今、対峙するこの虚もまた、世の理に仇なす獣。しかし幼少の頃と異なるのは、背を向けて逃げるは能わぬということ。知らず柄を握る掌が僅かに汗を浮かべる。滑らぬよう、なかば無意識に力を込めながら、白哉は眼前の虚を見据えた。

「諸共ニ喰ロウテヤロウカ。ソレトモ先ンジテ我ニ刃ヲ向ケタ者ノ死ヲ見届ケテカラ、ユルリト我ガ爪ニカカルカ?」
形は白い野犬のような容貌ながら、老若男女、十名ほどの声が混ざったような人の声が首の孔から漏れる。
「断る」
「ホウ?」
「貴様のような下賤の虚にやれる易い心身は持ち合わせておらぬ故」
「・・・ホウ」
虚の無駄口に付き合いながら、白哉は素早く周囲の様子を確認した。隊員は全員命は取り留めてはいるものの、例外なく両手両足を砕かれ戦闘は不可能に思われた。副隊長の木城は殊更に酷い。虚が分泌した強酸らしき毒液で肉と骨が剥き出しになり、尚も断面が溶け続けている。意識を保っているのが信じられぬほどで、早急に上級救護班を呼ばねば恐らく命は助かるまい。

木城の傷からなびいている煙を視界の端に捉えながら、白哉は静かに息を呑んだ。副官を含む二十五名を難なく斃し傷一つない虚。それを、自分ひとりで、且つ迅速に討たねばならない。・・・自らの能力を誇る白哉をして尚この時、冷たいものが全身を駆けた。

瞬きのような瞑目の後、懼れを打ち消すように白哉は翔けた。刀を振りかぶった瞬間にはもう無心となり、紙縒りのように集約された歩法で射程内に移動する。黒く空ろに窪んだ眼窩の間を確実に捉えた。白哉は手応えを確信した。しかし。
「いかん、朽木!」
虚の足元で人の声が上がる。それまで激痛で胡乱な目をしていた木城が潰された腕をかろうじて動かし、踏み込んだ白哉の足先に触れて制した。
「!?」
木城の尋常ならざる警告に気付き、白哉はすんでの処で一歩退く。見れば、白刃を触れさせたかどうかという虚の眉間の辺り、薄く作られた傷から砂粒がはらはらと零れ落ちた。白く微細な半透明の粒。まるで石英の結晶のようにも見えた。
「面白イ足裁キヨナア」
虚の深く裂けた口元が陰惨に歪んだかと思うと、ぶるりと頭部を振った。一瞬で傷跡はもとに戻り、同時に木城の胸部を更に強く踏みつけた。引き絞るような悲鳴と共に肋骨の砕ける音がする。愉悦を感じたか、虚の闇色の眼窩がひしゃげたように細められた。

隙を逃さずに白哉は踏み込んだ。間髪入れずに突きを繰り出そうと腕の筋肉が動こうとした瞬間、しかし更に上をいく速さで避けられる。
「愚カナリ」
打突を避けられ刀が空を斬ったと同時に、白哉の耳元で声がした。視界一面に虚の白い肢体が映ったと思う暇もないまま、腹部に衝撃を感じて視界が暗転し、無防備にも地に倒れ伏していた。
「・・・がっ!?」
痛みは一瞬遅れて肝のあたりを襲った。腹の血が一点に集まって暴れているような錯覚に陥り、白哉の顔が苦痛に歪む。反射的に柄の感触を求めて両の手を各々握り締めるが、愛刀は倒れた拍子に手を離れ、あえなく地面に落ちていた。咄嗟に目で追うと、右手を伸ばせばかろうじて届く位置に白刃が見える。

虚は最早這いずり回ることもできない木城の体から下り、楽しげに白哉を覗き込んだ。体色と同じ、不自然に白い舌でぺろりと頬を舐める。
「命乞イヲシテミヨ。サレバオノレノ頭ト胴体ハ生かして巣ヘト返シテヤロウ。四肢ハ我ニクレ。塩漬ケニデモシテ永ク喰ラッテヤル」
虚が顔の間近で言葉を発するごとに強酸の匂いがした。それだけで顔の皮膚が融けそうな感覚を覚えながらも、白哉は毅然と虚を睨みつけた。
「それも断る。五体満足で帰らねば家の者が怒るのでな」
戯れの譲歩をにべもなく断られ、虚は喉の奥でくっくっと笑う。笑いながら前足を白哉の右肩に乗せた。見かけからは想像もつかぬような体重で圧迫され、鎖骨がきりきりと悲鳴を上げる。呻き声が口を突いて上がった。しかし白哉は耐える。
「ナラバ、死ヘノ道行キヲ味ワイ乍ラ死ネル様、足先カラジワリト喰ロウテヤロウナァ・・・」
踵を返して虚は白哉の足へと頭を寄せた。肩に乗せられた足が外され、白哉は痛みを堪えて刀に手を伸ばす。いつになく冷たく感じられる刃に指先が当たる。そのまま、手が傷つくのも構わずに刀身を握った。血でぬめる掌に力を込めて引き寄せ、しかと握る。

強酸で濡れた虚の舌が今まさにき白哉の足袋に触れようとした瞬間、それは起こった。
「散れ、千本桜」
白哉の重い言の葉に導かれたように刀身が変化した。白銀に光る刃が淡い紅色へと変わり、無数の花弁へと分かれ四散する。
桃色の靄のようなそれらが意志を持った風の如くに虚空を舞い、討つべき対象を目指す。無防備な虚の背に数百の細かな刃が陣風となって襲い掛かった。

「無駄ヨナ」
虚は何ものかが襲い掛かる気配を感じて振り返った。にやりと微笑んで、そして虚の体は文字通り、霧散した。
「!?」
白哉は驚愕する。花弁が虚の体に触れる瞬間、虚自体が白い霧のように空中に散らばったのだ。ぼんやりとした霧をすり抜けた花弁は霧に触れた瞬間に悉く砕かれ、あえなく消えて白哉の手許に刀身として戻った。霧の固まりは中空に漂ったまま、声だけが先程と同じに耳障りな笑い声を立てる。
「朽、木・・・」
「副隊長!?」
見ると、木城が深手を堪えながら必死に声を上げている。
「駄目だ、あいつは・・・刃を立てても捉えられん・・・!」
「ソノ通リ。貴様ノ手品ナド効カヌヨ」
「!」
嘲笑とともに霧が空を切ったかと思うと、白哉の目の前まで迫っていた。思わず刀を構えて防ごうとしたが相手は自在に変形する異形。刀で二つに割れたかと思うとまた一つに合流し、一瞬で白哉の全身を包んですり抜けていった。
「があ・・・っ!!!」
瞬間、手といい顔といい首といい、無数の細かな傷から血が噴出した。
霧のように見える奴の肉体は、おそらく先程の石英状の砂粒であろう。白哉は体の痛みを努めて無視し憶測をつける。木城の言うとおりに通常の刀では役に立たない。千本桜の花吹雪でさえ叶わぬほど圧倒的な体積の砂粒。その一粒一粒が凶器として襲い掛かってくるとならば、・・・防ぐ術も、勝つ術も、無い。

短い思案のうちにも虚は再び白哉を襲う。粒が密度を増して拳のように殴打してきたかと思うと、また霧のように飛散して白哉を斬り付ける。幾度も繰り返され、次第に立つのも侭ならぬほど白哉は傷を負っていた。流れた血が大地に赤く染みを増やす。

「随分ト頑張ルモノダナァ。ソレトモ蛮勇ヲ誇ルカ? 死神ヨ」
それでも膝を付かぬ白哉ノ姿に、再び四足の獣の形態を取って虚は哂う。昏い眼窩は陰惨な光を宿して、目の前の弱者をどこまでも見下していた。
「凡テハ無価値ナリ。貴様ラノ生ナド何ラノ意味モ持タヌ。何レ灰塵ト成リ果テル運命ナラ―――」
靄を模して中空に固まり、それまでとは比較にならない霊圧を放ち始める。止めのつもりだと白哉は直感した。
「我ノ血肉トナルノモマタ運命ダ、卑小ナル者ヨ!」
「朽木いぃぃっ!!」
無慈悲な霧が耳障りな声を伴いながら飛んでくる。木城が絶叫している姿を視界の端に捉えて、白哉は僅か、僅かな間目を閉じた。


・・・死神となることを志した日。幼い頃、祖父の大きな背を目標としたあの日から、いつか戦いにおいて自分の命が潰える可能性があることは覚悟していた。
資質に恵まれていると周囲が誉めそやし、己が幾ら鍛錬を厭わずとも、自分の能力には限りがあることを知ってもいた。無双の力を誇らぬ限り、武人はいずれそれ以上の力を持った者に斃される運命にある。その理は、常に警句として白哉の脳裏に止まっていた。
白哉の心は奇妙に凪いだ水面のように静かだった。後悔や屈辱が無い訳ではない。ただ、かねてより日常の隣り合わせにあった終焉の刻がいよいよ訪れたのだという厳然たる事実が、彼の意識を支配した。
そうして白哉の心は折れた。静かに目を閉じた白哉の眼前にまで虚が迫った時、彼は確かに覚悟をしていたのだ。

しかし心とは裏腹に、折れなかったものがある。

「何イッ!?」
突然、虚の悲鳴が聞こえて白哉は目を開いた。痛みと共に自分が血溜りに沈むことを覚悟していたが、眼前にあったのは自分と距離を取り警戒する虚の姿。霧の固まりが二つに分断され、慌てて一つに戻ろうと蠢いている。
「・・・これは・・・」
ふと見ると、白哉は自分が刀を右に薙いだ姿勢であることに気付いた。正しい剣筋と姿勢。まさに、幼い頃から稽古で毎日辿っていた正しい型。
意志が折れても尚、変わらぬ握力、正しき角度でこの手はしっかりと刀を降っていたのだ。長年鍛え続けてきたこの体は、絶望の境地にあってもけっして膝を屈しはしなかったのだ・・・。
「私の肉体はまだ抗うというのか」
白哉は今一度、仇なす敵に向き直った。無意識の一閃による風圧で飛散した虚は油断を突かれて狼狽したか、笑い声を消してこちらをねめつけている。再び構えられた刃先が鋭く霧へと向けられた。

勝算がある訳ではない。しかし、白哉の目は最早鈍らなかった。静かな闘志が全身に宿り、刃先は揺るがずぴたりと定められた。
白哉の頬についた傷から血がひと筋流れる。しかしそれに気付くこともなく、彼は極限の集中を以って虚と対峙していた。そして先程の自分の諦めを恥じた。
・・・自分がこのような処で果てるというのか? いいや。己の力及ばぬことを認めはしてもけっして諦めるまい。現に、自分の肉体はこうも抗う事ができたではないか。朽木家の当主たる自分が。誇るべき祖父の血を継ぐ自分が。・・・強き者の手にかかったとて、易々と命を差し出してたまるものか。それは己のこれまでの生に対する侮辱にほかならない。
白哉は念を込めるように半眼で構えなおした。凪いだ波のようだった心が、途端に熱く滾り始める。走馬灯のように彼の過去が脳裏を巡った。祖父の背中、両親の面影、幼き頃より仕えてくれた老中、死神を志し鍛錬を重ねた頃の事、そしてすゑやあの娘達と知り合った時の事。

誇るべき人生ではなかったかも知れない。自分はけっして強き者ではない。しかし、それでも私は立ち剣を揮い続けねばならぬ。己の生を肯定するために、己が己であり続ける為に、・・・起て!

その瞬間、世界が白く変わった。



『じじさま』

幼い自分が祖父を見上げている。自邸の見慣れた練武場で、祖父に稽古で打ち据えられたのか、小さな彼は泣いていた。
夕日の茜色の光が差し込む中、白哉の手は既に痣と肉刺だらけだ。膝をつき、竹刀を床に転がしたまま、堪えきれずに涙を零す。重ねられたいつかの光景。

『できません。手をいっぱいに伸ばしてもじじさまの懐まで打ち込めません。私の体はちいさすぎます。私の力は弱すぎるのです』
『立ちなさい。お前が打ち込めぬのは体の大きさのためではない。気概のせいだよ』

祖父は敢えて白哉を助けおこさず、見下ろしたまま諭した。声は厳しい。
『きがい・・・?』
『何がなんでも勝ってやろうという気持ちだ。お前はすぐにかっとなる割に、心のどこかでがむしゃらになるのは格好悪いことと考えてはいないか?』
図星を突かれ、白哉は拗ねたように下を向く。
『だって、じじさまは戦いのときも涼やかな身のこなしをしていらっしゃるではないですか。私のように、ぜいぜい言ったり汗を流したりされません』
『私とて白哉の歳の頃は同じようなものであったぞ』
『でも・・・私は自分が情けないです』

また涙を浮かべる白哉に祖父は首を振り、竹刀を向ける。視線に容赦はない。その怜悧な目を見上げながら、彼は恐る恐る傍らに転がっていた竹刀に手をかけた。
革張りの柄が汗で滑る。頬を滑る涙を拭わぬまま、彼は立ち上がり構える。
幼子特有の高い声を、腹の底から絞り出して気合を挙げた。打つべき対象、相対する祖父しか最早その目には映らない。軸足に力を込め、射抜くようにして狙うは喉元への突き。庇うように阻む祖父の竹刀を反射的に体を左に逸らすことによって避け、床を踏みしめ、飛び込んだ。

『っうあああああああっ!!』

防具に的確に当たった音が周囲に響く。勢い余って白哉の体は竹刀ごと祖父の体にぶつかった。初めてまともに打てたという喜びと同時に、残心が甘いと叱られるのではないかという怖れが白哉を襲う。
『白哉よ』
おそるおそる見上げたその先で、祖父は笑っていた。
『じじさま・・・?』
『・・・それでいい。殻を脱げ。そして守るのだ。自分の意志を』

僅かに寂しげな、それでいてどこか満足を得たような微笑みだった。



気が付けば、そこは再び虚と対峙している森の中だった。奇妙に滾る、しかし清廉な意志が自分に宿ったように思えて白哉は無意識に口を開く。
「煩い」
「ナニ?」
自らの獲物を完全に見下した虚は侮ったように鼻を鳴らす。介さず、白哉は静かにねめつけた。

「・・・不遜だぞ、下等な生きものよ。運命などと―――貴様のような輩が軽々しく口にしていい言葉ではない!」

正眼に構えていた刀をふいに下ろして先端を地に向ける。手から柄が離れる。千本桜は刃先を地面に向けたまま、真っ直ぐに落下した。ついに戦いを放棄したのかと木城の悲鳴が上がった。
「潔キコトヨナァ。ソレトモ乱心シタカ?」
獲物を獲た確信とともに虚は笑った。しかし、手放された刀は地に伏すことなく、音を立てることもなく地へと吸い込まれていく。

「・・・卍解」
重い声で白哉は喚ぶ。新たに自分が得た力が筋の一本一本、血流のすべてに至るまで漲り、震え、それを喚んだ。

「『千本桜景厳』よ!!」

一瞬、木々のざわめきさえ止まったように空気が停止する。静謐な緊張とともに白哉と虚の間に地面から何ものかがせり上がった。虚は思わず目を向け、絶句する。巨大な刃が対になりながら大地から生えていた。
「・・・ナ、」
視認すると同時に、虚は予感に弾かれるようにして再び霧の形態を取った。
鈍重そうな巨大な刀など畏れてはいない、しかし、白哉の発する冷たい霊圧が虚を駆り立てた。恐怖。自らの存在価値を脅かす、魂の警告を感じて。

地面から出た刀は何の前触れも伴わず、突如無数の花弁へと変化した。霧の姿をとればひとまず逃れられる。恐怖を打ち消すように虚は広範囲に霧散する。
しかし目論見は阻まれた。
先程の始解とは比べ物にならぬ数の花弁が霧へと襲い掛かった。数だけではない、一片一片の鋭さまで増して、包囲した霧の粒子を捉えて砕く。
「何ダト!?」
瓦解する肉体と共に意識まで散り散りになりかけた虚は、逃げ場を求めて暴れ狂う。しかし身を押しつぶさんばかりの幾億もの花弁に阻まれ、切り刻まれ、恐怖した。

「ハ、ハハ、ハハハハハッ・・・!! 莫迦ナ・・・莫迦ナ莫迦ナ莫迦ナァァ・・・ァ・・・!」

哂っても哂っても哂い飛ばせぬ恐怖に溺れる。意識が消えかける最後の瞬間、冷たく睥睨する覇者の姿を見た。


そして、闇に親和した愚かな獣は塵へと消えた。


 ●


宵の入り、浮かれた声が六番隊舎からさわさわと漏れ出る。
副隊長率いる先日の討伐隊が、厳しい戦いにもかかわらず全員生還したことに対する、ささやかな宴だった。

戦いが明けた特有の高揚感と、辛くも命を拾ったという安堵が隊員達の箍を緩め、普段は近づき難い三席・白哉を賞賛し次々に杯を勧める。
なにせ本日の主賓は彼である。選りすぐりの席官はおろか、副隊長でさえ窮地に立たされた相手を卍解で文字通り粉砕したのだ。隊員達がこれまでの余所余所しい態度はどこへやら、或る種の羨望を込めて誉めそやすのはある意味自然とも言えた。ましてや手酷く負傷した副隊長は帰還以来四番隊に収容され、隊長は何処へと早々に席を外して不在。かくして、宴の初めから白哉はずっと隊員の相手を余儀なくされた。討伐に参加した者のうち比較的軽症で退院叶った幾名かは、吊った腕を振り回して他の者に白哉が卍解に至った状況を興奮気味に説明する始末である。

どこから訊きつけたのか他隊の席官や副隊長までが宴席に入り込んでおり、無下に叱り付ける訳にもいかぬ。次々に武勇伝をせがまれることに口数少ない白哉が辟易していた時、彼はある気配を感じて顔を上げた。
周囲に中座を申し入れて宴席を立つ。中庭に面した廊下に出ると、ほの寒い風が頬を撫ぜた。戦いの傷は四番隊の処置でほぼ治った筈だが、完治していない皮膚に風がやや痛く感じられた。
白哉は予感とともに視線を向ける。渡り廊下の端、ちょうど建物で月明かりの死角に入る場所にその人物がいた。襖のうちから洩れ聞こえる歓声を背にして、負傷した副隊長・木城はひとり飲んでいた。薄暗く、仔細は窺い知れない。

白哉が掛ける言葉を思案していると、彼は振り返らぬまま手招きをした。
「来い」
静かな声で命ずる。以前のような慇懃無礼な物言いではない。木城の素の言葉だった。
白哉が傍らからやや後方に座すと、木城は持っている猪口に酒を並々と注いで右手で差し出した。
「飲め」
杯を持つ腕は細かに震えてはいるが、酒を溢すようなことはなかった。あの時、彼の四肢は虚に手酷く潰された筈だが。いや、四番隊の治癒能力ならこの位までは容易に治せるのかと白哉が一瞬逡巡していると、彼は更に猪口を突き出した。
「飲めと言ってるんだ」
「・・・頂戴します」
一例して受け取り、干した。瞬間、あまりの強さに息が詰まる。白哉が今まで口にしたことのないような粗野で強い酒だった。喉のひりつきに思わず視線を床に落とす。と、白哉の視線は木城の脚に縫い付けられた。

「足は・・・駄目だったのですか」
「まあな」
木城の左足は腿から先が無かった。
投げ出すように座った両足の、左側の袴が不自然に床に張り付いている。木城は別段苦痛を感じるふうでもなく、ごく客観的なもの言いで足を指した。
「右はなんとかもとの形に近い処まではいったんだが。こっちは骨髄にあいつの毒素が染みててな。切断するしかなかった」
「捕肉剤は使われなかったのですか。卯ノ花隊長でしたら当然その提案もなさったのでしょう」
捕肉剤とは欠損した器官を補う強力な秘薬である。もとは十二番隊が開発し普及した薬品で、幾ら彼らとは相性の悪い四番隊といえども重篤な患者に対しては有効に利用していた筈だ。白哉の疑問に木城は皮肉めいた笑みを浮かべて首を振る。
「使ったところで無意味だろう」
「無意味?」
意図するところを量れず、白哉は怪訝そうに訊いた。自嘲を含めたるように木城は言う。

「あのな。・・・『三席たった一人が隊の窮地を救った上、その際彼はなんとも見事に卍解を達成』。・・・考えりゃ分かることだろう。お前を副隊長に上げねば我が隊の質を疑われかねん。ならば、俺の脚は無い方がお前は新副隊長として後釜に据わり易いだろうさ」
「・・・な、」
白哉は二の句が繋げなかった。確かに木城が言ったことはその通りだ。三席である自分が副官を差し置いて卍解を習得した以上、昇進は疑いようが無い。問題は、副隊長派としてこれまで白哉を疎んじてきた者達が易々とその決定に肯うかどうか――――木城が五体満足、心身ともに十分な状態のまま白哉に副官の座を明渡したならば不満が噴出するのは明らかであろう。
しかし、木城の身体に何がしかの問題があるのならばその限りではない。

「・・・・・・」
懸ける言葉も見つからぬまま、居住まいを正して頭を下げようとした白哉を木城は無言のまま手で制した。手の中の酒を飲み干して、酒臭い溜息とともに、しかし声音は至極真面目に諭す。
「謝るな。礼を言うな。ただ従え。俺が今まで、下らん餓鬼じみた牽制をしてまでこの地位に拘泥してきたことは、お前にとっちゃ惨めかもしれん。流魂街出身者が形振り構わず・・・ってな」
「そのようなことは・・・」
「いいさ。お前がどう思ってようが、もし少しでも俺を哀れだと思ってくれるなら、何も言わずに副官の地位に付け。・・・最後ぐらい、俺をさっぱりと去らせろよ」

最早、頭を下げることさえおこがましいことのように思えて、白哉はただ、この男に対して初めて覚えた深い畏敬に心打たれながら木城に酒を注いだ。
「私は、これまで曇った目で貴方を見ていたのかも知れません」
「構わん。俺も大概だった・・・。だが、今の隊長はこうはいかんぞ。どんなに醜かろうが隊長職に拘り続けるだろう。だが、耐えろ。耐えればいつかはあの凡愚も引退するだろうさ。悔しいが、貴族のお前にしか出来ないことがあるんだろう。・・・お前は強い」

木城は失った足先を見つめた。何も無い空間にかつては自分の血肉が息づき、文字通り己の体を支えつづけていた―――それが、今は無い。
死と生を分かつ、敗北と勝利を分かつ理由が才能だけである筈がない。しかし、努力だけである筈も無い。木城は卍解に至ることも無く敗北し、白哉は勝利した――。
各々身を削るような鍛錬を重ねた身である以上、決定的に異なる点は、その血筋だった。少なくとも木城はそう考える。歴代の六番隊隊長を輩出してきた、四代貴族の一、朽木家。平民である自分はその立ち位置を埋めようと足掻き、結果、この様相だった。絶望はなく、不思議に穏やかな心持ちで木城は今宵幾本かめの徳利に手を伸ばした。白哉が察して先に酒を注ぐ。
「・・・強くなどありません。貴族だとて、卍解を得たとて、私は・・・思い悩む人ひとり助けられぬ心弱き者です」
「へえ」
まるで自分自身に向けたような白哉の呟きを木城は聞き漏らさず、ふいに興味を惹かれて訊いた。
「女か?」 
肯定はされないが否定の言葉もない。気を良くした木城は純粋な好奇心と幾ばくかの親しみで白哉に先を促した。
「休隊の土産に聞かせてみろ。最後の副隊長命令だ」
白哉は迷いながら、しかし無視するのも大人気ないように思えて、差し支えの無い程度に緋真とのことを語り始めた。


 ●


「・・・阿呆か」
一通りの話を聞き終え、心底呆れたように木城はあんぐり口を開けた。猪口から零れた酒が床板に染みるのにも構わず、無遠慮に白哉をじろじろ見つめる。
「阿呆なんだな、お前。そうとしか考えられん」
「阿呆といいますと」
自分が抱えつづけた懊悩を、酒の勢いがあるとはいえ阿呆の一言で済まされては、幾ら白哉とて堪らない。些か不機嫌に返すと、木城は額に手を当てて大げさに首を振る。
「卍解まで習得しちまった大貴族のご当主様が、たかが女に拒まれたからって何を唯々諾々と従って諦めてんだよ」
「しかし・・・」
己を取り巻く環境、緋真が抱えつづける悲しみ、己の足を止める多くの要素が白哉の脳裏を過ぎって彼の顔は曇る。しかし、木城は単純に考えろよ、と白哉の曇り顔すら笑い飛ばした。

「惚れてんだろ、お前。その子に」

言葉を咀嚼し、意味を認識するまでに数秒を要した。そして、

「・・・はい」

頭で考えるよりも先に、口が自然に肯定の言葉を紡いだ。その言葉の力強さに自分で驚きを感じながらも、白哉は確信を以って、純粋な自分の意志をもう一度肯定した。
「はい。そうです」
「なら、選べ」
緋真と、それ以外とを。言外に問われた副隊長の言葉に白哉は静かに頷く。答えは決まっている。最初から決まっていた筈だったのだ。おそらくは、あの日、彼女に出会ったあの春の日から。

にやりと笑って木城は酒を満たした猪口を差し出した。白哉は迷いなく受け取って煽る。自分の選択と付随する運命を全て受け入れるように、一息で杯を干した。やけに楽しげに頷く木城に敬意を込めて一礼し、何時もよりは荒く席を立った。そのまま足早に部屋を抜ける。

「朽木三席?」
「どちらへ行かれます!?」
本日の主役が足早に宴席を去る様子に、部下達が驚きの声をあげる。構わずに彼は隊舎の外に出、風を頬に受けて力強く歩を進めた。目に最早迷いは無い。
戦いの際ともまた異なる熱い奔流が胸を焼き、その熱さに突き上げられるように彼は目指すべき場所へと歩んだ。木城の馬鹿笑いが遠くから聞こえる。もう迷うつもりはない。

それまで死神として万人に尽くし守ることが定めと考えてきた白哉の心の隅に、この時小さな光が宿った。卍解に至った際に心に刻んだ己の誇りと共に、それは一縷の信念のように彼の前に道となって現れる。只一人、只あの女を、心のままに守りたいのだという激情が。


激情の名を、恋という。



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