『 春の嵐 参 』
  − brother sun, sister moon 4(I do love you) −




「あ、・・・」

轆轤(ろくろ)の上で形を整えられていた壷が、緋真のふとした手の揺れで形を歪めた。
充分に集中し、気を張り詰めていた筈なのに。何故だろうかと彼女が自分の手を見つめると、指が細かに震えている。そこでようやく、手が冷たい粘土と水によってなかば麻痺していたことに気づいた。最早指もうまく曲がらない。身体も随分と冷えている。

緋真は大きく息をつく。それと同時に緊張が解け、忘れていた肩や目の疲れも戻ってきた。
もう一度やり直さなければ。指を既に火も乏しい火鉢に翳して宥め、溜った疲労を振り切るように顔を上げると、視界の端に白いものがひとひら映った。

日没の頃合から降り始めたみぞれ混じりの雪が、窓から僅かに漏れる室内の光を反射しているのだった。刹那に光る美しさとはうらはらに、周囲の空気がまた一段と冷え込んで緋真を包んだ。やがて冷たい雨へと姿を変えるだろう。暦の上では春だというのに、ここは未だ寒い。暖かな季節から置き去りにされたかのように、ひどく寒い。


「緋真? まだ続けるのかい?」
果たして雪が雨に変わってぱらぱらと屋根を叩く頃、作業場に声が響いた。緋真が振り返ると、すゑが心配げに佇んでいた。
「うん。もう一回だけ最初から」
「もう遅いんだから明日でもいいじゃないか。第一、まだ身体も本調子じゃないってのに」
「本調子じゃないからこそ、ここで仕事勘を忘れてだらだらしていたくないの・・・。ちゃんと後で休むから」
お願いおばあちゃん、と真摯な眼差しで懇願されて、すゑは溜息を吐いて土間に降りた。その手から温かい湯呑みが手渡される。
「甘酒。生姜多めにしといたから、ちゃんと身体と指あっためてからにしな。あたしも粘土の硬さ確認してやるから、終わったらすぐ寝るんだよ」
「・・・ありがとう、おばあちゃん」
湯飲みを大事そうに包んで破顔する緋真を見つめながら、すゑはその奥に隠された痛みを感じ取らずにはいられなかった。

あの日。妹を捨てたという過去を緋真が白哉に吐露してそのまま倒れ、保護された朽木邸から帰ったあの日以来、緋真は努めて平静を装っている。それどころか、床から起きられるようになってすぐに製陶に打ち込み、すゑの諌めにも「大丈夫」の一点張りで無理をする。
一度、白哉について今後どうするのか訊いたのだが、
「お手紙をね、書いて、孝ちゃんとさっちゃんに届けてもらったの。・・・だからもう、いいの」
そう寂しげに笑って仕事場へと踵を返す様子に、ああ、この子は自ら区切りをつけてしまったのだと悟った。

すゑ個人に思うところは色々とある。白哉の忸怩たる想いや緋真の傷痕、なによりも緋真の心のありようを思えば、彼女とあの青年との絆があっさりと断ち切られてしまったなどと、直ぐに容れたくはない。
しかし、緋真がこの恋に向き合うということは同時に彼女の傷を深くし得ることでもあるのだ。現に白哉を忘れる為に自らに無理を強いている彼女の姿を見ているだけでも、すゑは心が痛む。

「・・・緋真?」
「なに? おばあちゃん」
呼びかければ、誰よりも心傷んでいる者は努めて明るく微笑んでいる。
「いや、なんでもない。さて早く終わらせちまおうかね」
「うん」
作業衣の襷を絞めなおす緋真を見ながら、これでいいのだ、仕方がないのだとすゑは自分に言い聞かせた。
傷ついた過去を、誰にも拠りかからず独り抱えて生きていかねばならぬような、硬く乾いた未来しか其処に無いのだとしても。それでも、心を千路に千切るような恋を強いて選ばせることなど、すゑには出来よう筈もなかった。

作業も半ば。二人でようやく壷の大まかな整形を終えた頃、すゑが頭を上げた。
「おばあちゃん?」
「足音がした。誰かが家に近づいている」
穏当に生活しているとはいっても此処はやはり犬吊地区。夜盗などの気配には敏感であるすゑが鋭い眼差しとともに窓の外を見遣ると、風の音に混じって微かに草履が土を擦る音がした。
そして間もなく。玄関先から何者かの声が響いてくる。仔細はよく聞こえないが、取り敢えず怒鳴り声ではない。すゑは急に押し入るような物盗りではないようだと思いつつも、警戒を解かぬままに、孝太と幸枝の眠る部屋へと足を向けた。緋真も共に来るようにと促したその時、しかし緋真はひどく驚いた表情でその場を動かずにいる。

「どうしたんだい? 危ない奴らなら早く子どもら連れて裏口から出ないと・・・」
すゑが袖を引いても緋真は微動だにせず、じっと、更に耳を傾けるように玄関の方向を見ていた。重ねて夜分の訪問者の声がした時、彼女の唇が震えた。
「・・・まさ、か・・・まさか・・・!」
「!? ちょっと待ちな緋真、緋真!?」
静止も耳に入らず、弾かれたように緋真は玄関へと駆け出した。狭い家の短い筈の廊下が彼女には奇妙に長く感じる。自分の素足が冷たい床板を蹴る音が、いやに大きく耳に響いた。
その合間に、もう一度。あの訪問者の声が、緋真が聞き間違える筈のないあの声が。・・・確かに、戸の向こうから聞こえた。
「夜分に恐れ入るが、どなたか・・・」
「・・・白哉さまっ!!」
素足なのも構わぬまま土間へと飛び出し、戸板に縋り付いた。そうして初めて、緋真は自分が矢も盾も堪らずに白哉のもとに駆けつけたことに気づき、己を恥じた。心と身体とがちぐはぐに動いてこの始末。もう会わないと、自ら区切りをつけたのに何とこの身は浅ましいのか・・・。

玄関戸が開けられぬまま、暗がりに不自然な沈黙が訪れる。作業場から蝋燭を手にしたすゑがようやく追いついたが、自分をかき抱くように佇んでいる緋真の様子その場に縫いとめられる。そのまま、ただならぬ事態を息をつめて見守った。
「そこにいるのは緋真なのだな?」
奇妙な緊張を察してか、戸の向こうから白哉が気遣わしげな声を掛ける。
「夜分に済まぬ。礼を失しているのは重々承知だ。だが・・・」
声を聞けば聞くほどにこれは夢幻ではないと自覚し、緋真は呆然と呟いた。
「白哉さま・・・なのですか。ほんとうに・・・」
「そうだ。私だ」

いっそ。いっそのこと、幻であればいいとさえ緋真は思っていた。もう会うことはないと心に決めたはずの想い人が訪ねてくるだなどと、いっそ愚かな自分が作り上げた幻聴であれば良いとさえ思っていた。それなのに、戸板の向こうにいる白哉は、かつてと同じ気遣わしげな口調で緋真の名を呼び続ける。どうして、と重い声が緋真の口を突いて出た。
「どうして・・・どうして此処にいらしたのです! ・・・お願いです、帰って・・・帰ってください・・・っ!!」

檄した声はやがて嗚咽にも似た懇願に変わった。緋真は戸に背を向けて座り込み、戒めるように自分の肩をかき抱いた。
このまま、このまま帰ってくれたなら、この人は自分のような人間とこれ以上関わらずに済む。妹を捨てるような心汚い自分などに関わらず、この優しい人は、優しいままで、立派な道を歩んでいってくれる・・・。緋真の願いはしかし、当の白哉によって破られる。

「断る。帰ることも、お前との関わりを絶つことも断る」
断固とした口調に抗うように緋真は首を振る。
「わたしどもの・・・わたしのことは、お忘れ下さいと申し上げたのに・・・」
「容れられぬ願いだ」
「・・・っ」
緋真は座り込んだまま強く強く首を振る。
「どうか・・・おねがい・・・・・・どうか、わたしのことは忘れてください!!」
殆ど魂からの叫びだった。頭を抱えて拒絶したいのは本当は、忘れないでいて欲しいという身勝手な自分自身。耳を塞いで聞かなかったことにしてしまいたいのは本当は、傍にいて欲しいというさもしい心の声。それらを全て押さえ込んで、緋真は固く蹲り、それきり沈黙を守った。

雨が強くなり始めていた。玄関の外に立つ白哉の髪に、肩に、冷たい雫が容赦なく降りしきる。しかし頬を流れる雨の筋すら拭わず、彼はただ閉ざされた戸を見つめ、その奥にいる彼女に言葉を紡いだ。
ゆっくりと、しかし淀むことはなく。
「緋真。もう、私は決めたのだ。・・・この揺るがぬ気持ちだけは自分にも、お前にも、嘘は吐くまいと」
何時の間にか、白哉は緋真がいると思しき高さの戸板に片手を当てていた。

「私が置かれた立場のことも、お前の願いも、すべて考慮せずに己を押し付けるこの私を倣岸だと罵ってくれても構わぬ。このような卑小な男など、これきり、・・・本当に縁を断ち切ってくれても構わぬ」
額が濡れるのも構わずに頭を垂れて戸に凭れる。目蓋を閉じ、言うべきことを余さず彼女に届けられるようにと、それは祈りの姿だった。 「ただ、偽りなき心だけは伝えておきたい」
だから、と白哉は選びながら言葉を継いだ。

「お前を想うことを、許して欲しい」

語気を強めたわけではない。それは低く、静かに、ゆるぎなく伝えられた。
それきり、互いに心はましろになった。言葉も拘泥もなにもかも消え去ったような沈黙を、絶え間ない雨の音が埋める。
無風の沈思。だから、緋真はこのとき白哉の想いを否定も受容もしなかった。
「・・・っ!」
ただ、彼女の体だけがこの時為すべきことを為す。緋真は知らぬことだが、白哉が虚に心折れても肉体が剣を向け続けたのと丁度同じに。無意識下の意識だけで立ち上がり、震える指で内側から鍵を開け、戸を、・・・開いた。

「・・・緋真」
「・・・白哉さ、ま・・・」
白哉の姿を瞳に映した緋真はそのまま、呆然と立ち尽くす。玄関戸ごしに声を交わして存在を確かに感じていた筈なのに、こうして目の前に向かう、只それだけのことがこんなにも痛ましく、・・・こんなにも鼓動が跳ねとんで。
平静でいられぬのは白哉も同じ。緋真みずからの意思によって戸が開かれ、その姿を目の前に、自分の本心がすんなり口をついて出る。
「会えたな。・・・ようやく」
意識せずとも、自然と白哉は笑んでいた。ようやく自分の言葉を伝えられた喜びと、ただ純粋に彼女に会えたという安堵。
見た目の大きな違いは無かったのかも知れない。しかし、今、白哉はまごうかたなき笑顔を、誰にも見せたことのないような微笑を、緋真ただ一人に向けていた。真っ直ぐに二人の視線が混ざり、それだけで、安らぎといくばくかの緊張が流れる。
「・・・わた、わたしは・・・」
沈黙に耐えかねたように緋真の唇が震える。色々なことへの謝罪や、雨に濡れた白哉への気遣いの言葉や、今の自分の心や・・・言うべきことが目まぐるしく脳裏を駆け巡り、しかし紡がれたかけた言葉はすぐに途切れる。張り詰めた糸が切れたかのように、緋真の身体は崩れ落ちた。
「緋真!」
土間に倒れこむ寸前に白哉の手が伸び、しかと抱きかかえられる。細い全身に力は入っていない。目蓋もゆるく閉じられている。慌てて駆け寄ったすゑが口元に手を翳して息を確認し、大丈夫、と頷いた。
「・・・心配ない、気を張ってたのが一気に緩んだだけだよ」
気を失しただけと分かって白哉も安堵の息を吐いた。しかし同時に、腕に抱く身体の重みがあの花街での夜よりも軽くなっているように思えて不安が増す。蝋燭の光のもととはいえ、顔色も悪いように見えた。
「思い煩わせたのでしょうか。私の・・・話で」
「いや、逆だろう」
案じた表情の白哉とは裏腹に、すゑは微笑みすらして緋真の頬を撫でた。
「・・・ほっとしたんだろうさ」
細く節くれだったすゑの指が緋真の目許まで伸びる。

今宵ひととき今ようやく、彼女の眼は涙で湿っていないのだった。


 ●


緋真は白哉の手によって布団に寝かされた。傍らを白哉とすゑが囲む。
足された火鉢の炭が熾ってようやく室内は暖かくなり、緋真の寝息もいつしか深くなっていた。温かさに上気したように桃色に染まったその頬を指の背で撫ぜながら、すゑは言葉を選ぶ。
「長生きすると、時々、驚いちまうようなことに出くわすね」
「・・・ええ」
努めて朗らかに言うすゑはそれでも真剣に安堵しているようで、目元がことのほか、優しかった。先ほどの自分の宣言に少なくとも反対の意は示されていないのを白哉は見て取る。それが彼にとってはことのほか有り難かった。
「自分でも驚いているのです。しかし、軽い決意でないことは誓って申し上げる」
「・・・うん」
熟慮に熟慮を重ねた後の結論であろうとすゑは察する。以前と比べ呪縛から抜けたように凛としたこの白哉のことだ、この誓いが嘘偽りである筈がない。しかしすゑは敢えて問いを発した。
「生半な覚悟では足りないかも知れないよ。ましてや、・・・あんたは貴族だ。背負うものが多すぎる。それでもかい?」
たとい想いが通じ合ったとて、身分の差という現実は厳然と横たわり続ける。すゑは口にこそしなかったが、彼女自身が生涯の決断を強いられたのと似た立ち位置にいる白哉に対してだからこそ、その意思を確認したのだ。

厳しいすゑの表情と、警句にも似た問いの意味を改めて白哉は咀嚼する。四大貴族の当主である自分が流魂街の娘に心惹かれるということの意味、その重みを自らの心と照らし合わせ、そして、やはりまた同じ結論に行き着くのだ。
たとい、立場の違いが己を縛ることになっても。たとい、緋真本人が・・・この自分を拒もうが。
「・・・はい」
己の想い、ただそれだけはもう決して揺るぎはしない。自らに確認するように白哉は深く頷いた。
「それでもです」
眼には強く決意が宿っていた。しかしその眼差しは飽くまで優しく、傍らで眠る少女へと向けられる。
布団の上に置かれたそのか細い手を取る。初めて出会ったあの頃と同じに、その掌は小さく、指は皸で荒れ、そして冷たい。このような儚い手で、自身の痛みも過ちも投げ出すことなく抱え続けてきたのだろう。

ぎこちなく、しかし優しく両手で包み込み、その儘暫くしてようやく緋真の手は白哉と同じ温もりになった。
悪辣な虚に立ち向かい卍解に至った際、己の生きる意志と誇りを守る為にこの手で刀を振るった。そして今、ただ少女の手を暖めるために、幾許かの役には立てたのかも知れない。猛き力と微かな慈愛。一月、いや数日前までは思い描くことさえ出来なかった己の両手が成し得た役割を、彼はいまとくとくと心に刻んだ。

緋真の寝顔は、今日は幾ばくか安らかに見えた。まるで枷が弛められ、固い戒めからいっとき放たれたように。
白哉は眠りの障りにならぬよう気を払いながら、握る手に力を入れる。守ります、と無意識の決意が口にのぼり、すゑは一瞬驚きに目を開いたものの、やがて肯ずるように深く深く頷いた。
「そうかい・・・そうだね。そうなんだねえ・・・」


この時この老女の心にある固い決意が宿っていた事を、白哉はしばし後に知ることになる。



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