『 明烏 前編 』
  − brother sun, sister moon 5(ever yours) −




清家はその朝、床についた覚えもないのに布団の中で目が覚めた。朝の陽が障子紙を照らしており、うすぼんやりとしていた脳裏がいくばくか明瞭になる。どうやら快晴であるらしい。

確か自分は、任務で危地に赴いたという青年当主の無事をひたすら祈り続け、無事帰還されたとの報を受けて崩れ落ちるように眠りに落ちたのではなかったか。壁の日捲り暦はあれから3日が経ったことを示している。まったく情け無いことに、老いた自分は主人の帰還を夜を徹して祈念しただけで、3日も眠り通していたというのか。
こうしてはおられぬ、と老人は傍らにあった眼鏡を掛けなおし、布団に掛けてあった羽織をなかば無意識に肩に滑らせた。急ぎ、廊下へ続く襖を開く。主人が流魂街の女と親交を持っていることに抗議していたことなど今は二の次。まずは主の無事をこの目で確認せずにはいられなかった。

既に夜は明けきっている。誰ぞあるかと声を上げると、すぐに馴染みの女中が掃除の手を中断してこちらに来た。
「清家様、あまりご無理をなさってはお体が」
「私のことなどどうでも宜しい。白哉様はお戻りになられたのか!?」
「は、はい」
普段、冷静な清家が荒げた声に畏れながらも女中が説明したことには、任務で危機に陥った際に卍解に至ったという主人は討伐後の様々な雑務に追われ、殆ど隊舎に篭っているという。
「報告書が山とおありだというのと、引継ぎ業務とのことで・・・それでも日に一度は屋敷にお帰りになり、またすぐにお仕事に向かわれていらっしゃいました」
「何故、私を起こさなんだ」
「白哉様が清家様を起こさぬようにと皆にきつく仰いまして。それに、あのう・・・」
女中がおずおずと清家の肩のあたりを指さしてようやく、清家は自身の肩口に掛けた薄蒼の羽織に気づいた。
これは自分のものではない。しかし持ち主を忘れようもないこの品は・・・
「帰宅なさる度、真っ先に清家様のお部屋にいらっしゃっていたのですよ」
女中の笑顔を目にしながら、清家は、眠りこけていた自分に羽織を掛けた主人に思いを馳せた。
かつての少年の手は自分が思う以上に大きく強くなっていたのではないか、などと脳裏に巡らせて羽織に触れる。
目の詰まった厚手の生地は朝日を浴び、震えた掌にも温かだった。


 ●


氷雨が明けて朝にはすっきりとした青空、さらに午後に日が高くなると気温は更に上がった。
白哉は春近い日差しの明るさに目を細める。ふと、川原の土手、まばらに生えた柳の枝に未だ雪がこびり付いているように見えて目をこらした。銀色に光るそれは雪ではない。やわらかな被毛を纏った柳の芽、猫柳だった。
「・・・ふ」
知らず、独り笑う。雪と猫柳を間違えた自分の間違いを笑ったのがひとつ。そして、目に見える春の兆候を知ったことがもうひとつ。
己の身と心の軽さに自分でも驚きながら、白哉は少女が住まう家へと歩を進めた。

白哉の予想に反し、家では緋真ただ独りで自分の訪れを待っていた。すゑは朝から所用だと言い残して不在、子ども達はすゑに言いつけられた用事で使いに出ているという。
だから、静まり返った家の玄関で手をついて緋真が自分を迎えた時、白哉はその静けさにやけに心を乱されたのだ。否が応なしに思い出されるのは自分の心を告げた雨の日の夜のこと。勤めの為にすぐに此処に来ることのない時間を挟んでいても、今この場で相手に向かえば胸の熱さはあの時と同じに、再びこみ上げそうになる。
「・・・身体の具合は良いのか」
「はい。もうすっかり」
かろうじて搾り出した問いに答えたその目は澄んで、まっすぐ白哉を見据えていた。
とはいえ互いに目が合えば思い返されることは同じ。どちらともなく視線を外すと、お互い口にすべき言葉を捜した。
「あ、あの」
緋真は顔を上げると、一瞬だけ逡巡して息を吸い、意を決したように切り出した。
「一緒に来て頂きたいところがあります」
拒む理由は何も無かった。


目的の場所に着く途上、緋真は一言も口を開かなかった。僅かに俯いたままただ黙して白哉の一歩先を歩む。すゑの家を出てからまっすぐ、戌吊の中心部へと向かった。
沈黙の中を二人の足音が埋めていく。
白哉にとってはゆっくりとした歩みを追いながら、ふと、緋真の手が軽く握りこまれていることに気づいた。ともすれば震えてしまいそうな心を抑えているようにも思え、細く白い襟足がひどく儚くかった。ただ今は見守るように、細い背中の後を追った。

道はあばら屋が密集する地域を抜け、やや開けた川原に行き着いた。風が通り、家々の合間に篭っていたすえた臭気を空へと洗い流してくれる。
川は大きいものではない。早い水流のためか水面は淀んでおらず、女達が水を汲んでいるのが散見できた。
やがて緋真は土手を降り、川沿いに並ぶ家屋の合間に入っていく。周辺の家屋は比較的整っており、綻びのない板葺き屋根だけではなく、瓦葺きの家さえある。戌吊の中でもやや生活力のある者が住む地域なのだろうと白哉は察した。
ある家々の間、路地とも言えない小さな空間を指して緋真は歩みを止める。
「ここです」
憐憫を許さないかのような淡々とした声音がある予感を白哉に告げる。一瞬だけ、躊躇いにも似た沈黙があった。

「・・・わたしは此処で妹を捨てました」

川の方向からの風を背に受け、髪を靡かせた緋真の表情は白哉には見えない。
「もみじみたいな手をした小さな赤ちゃんを。お乳がなくてお腹が空いてたはずなのに、宥めたらすぐに泣き止んでくれた、・・・とてもいい子だったあの子を。疑うことなど知らない澄んだ目をしたいもうとを・・・わたしが、置き去りにして捨てた場所です」
「・・・」
あらゆる言葉が乾く。
仕方の無いことだったのだろう、という言葉を掛けることは容易い。事情と当時の状況を考えれば誰しもそうする、といったありきたりの慰めは。
だが緋真はそのような慰めを望まない。骨身を削ってでも、或いは身を賭してまでも、己の罪から逃げずに痛みを享受する彼女は、決して受け入れはするまい。
だから白哉は何も言わぬまま、ただ彼女へと手を伸ばし、頬にかかった髪を掬った。大きな瞳が赤子を横たえた地面を凝視しているのが横から見えた。
自分が罪を犯した此処から目を背ける様子は微塵もない。白哉はそのまま、手を肩に添えた。見た目以上に細い肩だった。
「此処は風がよく通る。・・・赤子の泣き声を風下にさぞ響かせてくれたろう」
泣き声、という声に緋真が不意の身震いをする気配が掌から伝わった。白哉はそのまま言葉を選んで続ける。
「もしも縁があったとして、・・・その子を必要とする誰かの為に、その声を風は運んだろう」
「・・・ええ」
肯定はしていても、緋真の声に力はなかった。
白哉の言った事は勿論、間逆の可能性もあった。何がしかの下劣な理由で赤子を手に入れようとする下郎が聞きつけないとは言い切れない。考えられる危険は数え切れぬ程だ。
それでも。白哉はただ緋真を上面だけ慰めるために楽観的な可能性を口にしたのではない。
「信じたいのだ。私も、すゑ殿の言ったことを」
「おばあちゃんが?」
意外な人の名に、緋真は顔を上げる。そこには穏やかに見つめ返す白哉の眼があった。
「以前、すゑ殿から聞いたことがある。出会った頃のお前に、罪の意識があるのなら尚更のこと諦めるなと叱咤したのだと」
「あ・・・」
「可能性が残されているのなら諦めるべきではない。私もそう信じている。お前もそうだな? だからこそ、今も花街を危険を冒してまで探しているのだろう」
両の手を固く握り締め、俯き加減ではあったが、緋真は強く答えた。
「はい。わたしは・・・わたしは、この身体が動く限りは、あの子を探します。それが、それだけがわたしの・・・」
強く微笑んだつもりだった。しかし、意思とは裏腹に緋真の両の目から大粒の雫が頬を伝う。白哉は咄嗟に指先で涙を掬い、その熱さにいつぞや花街の隅で緋真が過去を吐露した時のことを思い浮かべていた。しかしあの時とは異なり、緋真はふるふると首を振り、自らの袖で涙を拭く。
「わたし、きっとまた泣きます」
涙の名残で僅かに赤い目をかるく伏せて、緋真は呟く。
「わたしの過ちは消えない。だから、お婆ちゃんや子どもたちに、そして白哉さまにまでこうして心配をかけてしまっても、きっとまた、泣いてしまいます」
「構わん」
伸ばされた白哉の右手が緋真の頬を包む。涙の名残でまだ湿り気を帯びた肌が暖かだった。気遣うような、労わるような大きな掌に安堵を憶えながら、緋真は白哉のほうに向きなおった。手が離れてしまわないよう、ゆっくりと。
「白哉さま。わたし、おこがましいことを言います」
おずおずと、自分の頬に添えられた手を確かめるように、両手で白哉の手を包む。白哉にとってはこの世で最も尊い両手は、枝のように細くて荒れていて、そして愛おしい温もりに満ちていた。

「お慕いしています」

あらゆる壁を、枷を越えて、緋真はその言葉を形にした。
「ずっと。ずっと・・・お慕いしてきました」
ずっと心で凍らせていた、凍らせておかなければならなかった感情を暖かく呼び起こしてくれた。この感謝と愛おしさが少しでもこの人に届けられるようにと、瞳を逸らさず真っ直ぐに。
「貴方を想うことを、わたしのような人でなしが貴方を想うことを、・・・許して下さいますか」
少しの緊張を含んだ問いは、白哉の掌が頬から離れて一瞬こわばる。不安に歪みかける緋真の瞳は、しかしすぐに広い胸に抱きすくめられて驚きへと変わった。
「・・・無論だ」
言葉を選んで結局、簡素な肯定しか白哉は口にできなかった。だが想いは全て、ゆるく温かい抱擁へと十全に込められる。体格の違いから、こうして正面からぴたりと寄り添ってしまえばお互いの顔は見られない。それでも全ては通じていた。

長いようで短い沈黙ののち、訥々と、己にも刻み付けるように白哉は語りかける。
「己を責め続けなければ自分を許せぬのなら、お前がそう言うのならば、そのままでいい」
緋真は何も言わない。ただ、縋りついた白哉の袂にぎゅうと力が入るのが感じられた。呼応するように細い肩を抱く白哉の手に力が入る。
「そのままのお前で構わぬ。ただ此れから・・・お前が過去を苛む時、お前が自分を責める時、その涙の傍に居させて欲しい。私はお前の傍に、」
一瞬のほんの何分の一かぶん、言い淀む。躊躇ったのではない。ただ彼女に届ける最良の言葉を探して、そして、
「傍に・・・在りたい」
結局、最も素直に自分の想いを口にした。
緋真は泣かなかった。泣くことはなく、ただ白哉の腕に抱かれ、無言のまま頷いた。受け入れるべき幸福の大きさに応える言葉が見つからぬまま、もう一度、またもう一度と、ひたすら自らの想いも同じなのだと頷いた。

悲しい恋になるのかもしれない。
それでも構わないのだと白哉も緋真もこの時心を固めていた。
漠たる予感は、思えば最初から憑いてまわっていたのだ。緋真を縛る過去と白哉の辿らねばならぬ未来。相容れぬそれらに従ったままでいたなら、お互いに何も疵付かぬままに生きていけたろう。
しかし最早自分達は出会い、こうして互いの想いを交わしてしまった。
二人の中に後悔は無かった。立場や身分という壁は高く厚いまま聳えている。だが、白哉も緋真もそれに臆して想いを封じるつもりはなかった。
たとえ、如何なる帰結が待っていようとも。

そのまま、番いの鳥が温度を共有し合うように、お互い寄り添ったままでいた。
凍てついた冬を耐え忍んだその果て。この心のどこか、光差す暖かい場所で、静かに花ひらく音を二人同時に耳にした気がした。


 ●


家へと戻る道行き、行きとは違い二人は横に並んで歩んだ。特に意識した訳ではない。ただ、意識はしないまでも白哉と緋真はお互いの姿を視界の端に入れたまま、二人の手がもう少しで触れそうな距離を保って歩き続ける。
お互いに声を掛けるべきことは多くあったような気もしていた。何より声を聞いていたいと思う気持ちも大きかった。それでも、沈黙をただ共有できることすら貴重なことのように思えて、全ての言葉が消え去った。春近い陽光が二人のあわいを心地よく占めている、ただそれだけ。 最早、それだけでよかった。

「あ! きたきた!」
「帰ってきたー!」

小さな家が視界に映るか映らないかの頃、軒先に座り込んでいた孝太と幸枝が二人の姿を見つけて大きく手を振る。無邪気な姿に緋真も手を振り笑顔で応じる。その自然な姿が白哉にはことのほか眩しく映った。
「おかえり! 白哉さんとどっか行ってたの?」
「え、・・・ええ」
孝太の無邪気な声に緋真の声が一瞬止まる。子ども達は目を合わせて曖昧に頷きあう大人二人を不思議そうに見比べて首を傾げたが、そうだ、と思い出して手を打った。
「おれたち、伝言あずかってるんだ」
「あのね、おばあちゃんがね、緋真ちゃんと白哉さんが帰ってきたらお部屋に来てって」
「おばあちゃんが? 帰ってたのね」
「うん。なんか、おとっときの着物着て、頭に手ぬぐいでほっかむりしてたんだけど、どうしたんだろ」
「ほっかむり?」
訪問着にほっかむり・・・と緋真は呟いて首を傾げながら、傍らの白哉にお時間は大丈夫ですか、と訊いた。白哉は頷き、二人で家の中へと急ぐ。
白哉は孝太と幸枝の傍を通り過ぎる際、その小さなそれぞれの肩口に手のひらを置いた。特別な含みがあった訳でもない。だがその掌の大きさに温かみを感じ取り、幼子ふたりから笑みが零れる。
あの日、六番隊舎の陰で緋真への心配を訴えた不安げな瞳はもう消え去っていた。幼子ふたりは顔を見合わせて頷き、路地へと飛び出すと、陽光降り注ぐ中をはしゃぎながら遊びに出かけていった。

茶の間ではすゑが一人、手鏡を眺めながらなにやら顔を擦っていた。
擦られている左の頬は明らかに腫れ、少し赤くもなっていた。酷い疵でないとはいえ若くもないこの身に多少は痛む。力の入ったいい一発だった。
「・・・まったく、よぼよぼの爺さんの癖に人を殴る力だけは残ってたんだねぇ」
冷やしたのが効いたか痛みは大分引いたが、おそらくこの痕は数日は消えないだろう。だが、鏡を覘くすゑの表情は何故か明るく、傍目に人がいたら微笑んでいるようにも見えたろう。すゑは最後にふっと笑うと鏡を伏せて廊下を近づく足音に耳を済ませた。
やがて襖を開けて白哉と緋真が姿を見せる。二人揃ったその様子にすゑは目を細めた。
「おや、おかえり。丁度良くおそろいで」
「おばあちゃん!? どうしたの!」
「すゑ殿・・・その疵は」
案の条か、すゑの有り様を目にして二人は驚きの声を上げる。緋真に至ってはやや紅潮していた頬を一気に青ざめさせていた程だった。
「ああ、大したモンじゃないさ。景気良く腫れちゃいるが見た目ほどは痛くないんだから」
「でも・・・」
すゑはあたふたと手当ての道具を取りに行こうとする緋真を制した。白哉はというと腫れた頬を凝視している。どうやら危害を加えた者について見当をつけているのだろう。・・・まったく、若いのはお互い感化されて似たもんになるのも早いのかねえ、などとすゑは心中苦笑いして、不穏な雰囲気を拭うように大仰に手を振った。
「さっきよく冷やしたからもう大丈夫だって。事情もあとで。それよりも、緋真、白哉さん、」
声を落としたすゑの言葉から、何やら只ならぬ雰囲気が立ち上る。知らず背筋を伸ばした二人に向かってすゑは膝を改めて向き直り、極めて落ち着いた声で切り出した。

「あんた達に話があるんだよ。・・・大事な話だ」



 前へ  次へ


     HOME
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送