すゑが針仕事からふと目を上げて庭を見れば、つい先日満開になった躑躅がその盛りを過ぎようとしていた。

世に咲く花は皆漏れずに散り逝く。豪奢に咲き誇る牡丹もこの粗末な庭を彩る躑躅も然り、決して逃れ得ることはなく。
しかしそれ故に、季節が巡ったその先でまた、やがて開花の喜びを漲らせるのだろう。それは、この上なく真っ当で・・・とても道理に適ったことだ。
人の世の逃れられぬ理を花のそれと重ねながら、しかし心は仄かに温かく、われ知らずふっと微笑が漏れる。
「一通り咲き終わったら、来年の蕾のために、花殻、しっかり取り去っておかなきゃねえ」
自分に言い聞かせるように呟き、目を伏せ手拭いを持った手元を見る。かつて、若き日に刀を握り締めていた頃からは想像もつかない程に老い皺が深く刻まれた。血ではなく泥に塗れることを選択し続けたこの手は、少なくとも刺繍だけは昔より達者になったように思える。
「・・・ま、こんなものかね」
生成りの生地に緋糸で大ぶりの牡丹。出来は悪くない。少女が迎えんとしている旅立ちに、どうにか間に合いそうだった。



『 瑞鳥歌 』
  − brother sun, sister moon 6(dear, my sweet dear) −




「今まで・・・本当にお世話になりました」
長く身を寄せ、慣れ親しんだ我が家と『家族』に向かって、緋真は深深と頭を下げた。
今日はとうとう緋真がすゑの姪夫婦の家へ養女に入るため、流魂街の家を後にする日だった。家の外では既に、緋真を出迎えるための籠が待機している。荷物を運ぶために二台目の籠までもがあった。すべて高葦家が厚意から用意してくれたものだった。
尤も、もともと持ち物の少ない緋真のこと、荷物とはいってもすゑから譲られた幾ばくかの着物と帯が主だった。しかし、かつて緋真が妹を手放さざるを得なかった際に来ていた古びた着物だけは、今後も妹を探す手立てになるだろうと大事に大事に荷物に加えられたのだった。
すゑの持っていた青藍の小紋に身を包み、髪を結い上げ、うすく頬紅をさした緋真は最早少女ではなく、揺るがない意思を持った一人の女性として、此処から巣立っていこうとしていた。

「緋真ちゃん・・・」
「おれ達のこと、忘れちゃやだよぉ・・・」
「うん、絶対に忘れない。だから、二人とも、おばあちゃんの言うことをしっかり聞いて、いい子で、元気でいてね?」
前日の夜から顔をぐしゃぐしゃにして泣いている孝太と幸枝を緋真はぎゅっと抱きしめて別れを惜しむ。二人の掌が自分を掴む力の強さを増して、緋真はもう一度抱く両腕に力と優しさを込めた。
傍らで腕を組んでその様子を見ていたすゑは、ふいに「緋真」と名を呼んだ。固く押し殺された声音だった。
「いいかい。・・・これきり、もうあんたはあたし達と何らの関わりもない。これが今生の別れと思いなさい」
「おばあちゃん・・・」
旅立つこの日まで、繰り返し繰り返し言い含められてきた厳しい現実をまた目の当たりにして、緋真の瞳に寂しさが宿る。しかしそれはすえも同じ事だった。
「前にも言った通り、京楽の家に復縁したとはいえ貴族の間にはまだあたしの悪評が残ってる。あんたを高葦家の養女に推したことが公になれば巻き添えを食うことになる」
「巻き添えだなんて、そんな・・・」
差し挟まれそうな優しい抗議をすゑは首を振って厳しく制した。
「そういうものなんだよ、貴族の世界ってのは。いいかい緋真、よく憶えておきな。あんたが今から足を踏み入れるのは道理が道理として罷り通るとは限らない場所だ。あんたが白哉さんと生きていきたいって覚悟を決めたんなら、それらも全部、蹴散らせるものは蹴散らし、受け容れられるものは受け容れて、そうして頑張っていかなきゃいけない」
「・・・はい」
警句とその裏にある沢山の心配を受けて、緋真は固く頷いた。そしてようやく、すゑは満足そうに微笑んだのだった。
「いい『娘』だ」
まるで小さな子どもにそうしてやるように、節くれだった手ですゑは緋真の頭を撫でさする。
「あんたは、あたしの大事な、かわいいかわいい・・・『娘』だよ。ずっとだ。もう会うことはなくとも、これからも、ずっと」
「おば・・・あちゃ・・・っ」
そこが限界だった。かろうじて堪えられていた緋真の涙がほろほろと零れ落ち、幼子のように純粋に彼女は泣いた。
優しく抱きとめながらすゑは思う。思えば白哉と会って以来、随分とこの子は泣くように、・・・いや、泣けるようになった。それまでは手放した妹のことを想い、涙を流すことさえおこがましいと自戒しては己の心をさらに深く傷つけてきたというのに。それが今は自分の周囲との関りを慈しみ、こんなにも泣けるようになった。
だから大丈夫だ。絶対に。すゑはそう確信する。散々泣いて、泣くからこそ、きっとこの子はまた立ち上がっていける。
自分の涙もまた零れそうになるのをぐいと拭って、すゑはにっと笑った。多少の無理は押し隠した。
「まったくもう。せっかくの門出だってのに辛気くさいねえ。ああ、ほらほら、化粧が崩れて折角の別嬪さんが台無しになっちまうよ」
すゑはこの日のために縫っていた手拭いを袂から出すと、緋真の涙を拭ったあとでその手に握らせる。
「これは・・・」
緋真が広げてみると、そこには艶やかな牡丹の刺繍。傍らで泣いていた孝太と幸枝も思わずわあっと声を上げた。
「あんまりあたしの持ち物やらを先方に持ち込むのは良くないんだけど、ま、これ位はね。急ぎのやっつけ仕事だけど勘弁しておくれ」
「・・・ううん! すごく綺麗。忙しいのに、大変だったでしょ・・・ありがとう、おばあちゃん。わたし、大事にするね」
受け取った手拭を丁寧に畳むと、懐へと仕舞った。緋真はそのまま、大事な宝物のように手を当て微笑んでいる。
「そうやって笑いなよ」
「え?」
すゑはもう一度緋芯の頭を撫でるといつものように、からりと笑う。いつも緋真と子ども達を安心させてきた、強さ溢れる笑い方だった。
「きつかったら泣いたっていいんだから、泣き終わったらそうやってちゃんと笑ってなさい。生きてりゃ色々あるけれど、辛いことが無くなることなんてない。それでも、あんたはもう一人じゃないから、」
両の手を伸ばし、涙の後がうすく残る緋真の頬を包んでやる。送り出す最後の言葉と共に、すゑがしてやれる最後の所作だった。
「だから・・・きっと大丈夫さ。笑って、あの人と一緒に・・・まっすぐに生きな」
すゑの手の中で、言葉による返事の代わりに緋真はしっかりと頷いた。
もう揺るぐことはなかった。


緋真が用意された籠へと乗り込み、最後に覆いが掛けられる前も、彼女が家族へと残していったのは暖かな笑顔だった。
幸枝と孝太、そしてすゑも、思い思いの祝福の言葉と共に、緋真の門出を見送った。
再会の約束されぬ別れ。だが、これは悲しい別れではない。だから彼らは春の離別を、最後は涙ではなく笑顔で果たすことができた。

互いの光ある未来へと続いていく。これは決して悲しい別れなどではないのだから。


 ●


地に落ちた影が大分濃い。日差しが暖かになった上に太陽の角度が高くなったのだ。もう春も大分深い。
白哉は自邸の玄関から外を眺めた。外気が衣服を通して肌にしっくりと親和する。今日この日に誂えたような天気だった。
見送りはいない。使用人の誰にも気取られぬよう、気配を消してきたのだった。そのまま音も立てずに玄関を出て敷石を一歩踏んだその時、不意に「どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」という声が背中に投げかけられた。
「・・・清家」
些かの驚きを覚えながら振り返れば、そこには朽木家の老中、清家が小さな体を折り曲げるように頭を下げていた。緋真との一件に際して、未だ互いに蟠りを抱えたままであった筈だが。何事も無かったような態度をとる清家の意図が掴めずに、白哉は沈黙した。
「例の娘御が本日、京楽家ゆかりの方のもとに養女として参るそうですな。付き添われるおつもりですか」
「調べたのか」
「はい」
悪びれるところも無く答える。白哉の沈黙を無視し、清家は「お忘れ物でございます」と傍らに置いた小さな桐箱を開いた。
中に収められていたのはあえかな蒼の薄絹。目にも妙なる光沢を湛えたそれは『銀白風花紗』。・・・白哉の祖父、銀嶺が身につけていた希少な襟巻きだった。
清家はうやうやしい手つきでそれを広げ、驚く白哉の首元へと掛けた。
「清家。・・・これは」
「どうか勘違いはなさらないで戴きたい」
ゆっくりとした手つきとは裏腹に、ぴしりと揺るぎない声が白哉の声を遮る。
「私は白哉様のご決断に全面的に賛同する訳ではございませぬ。幾ら高貴な家の養女になったとて、流魂街の出であることは事実。無論、他の家の方々もそれを前提にこれより当家をご覧になることでしょう」
「・・・・・・」
自分を見据える清家の目は鋭い。眼鏡の奥から白哉をさえ気押すような厳しい視線と共に突きつけられた言葉は、まさに白哉の憂いの種そのものであった。首元の襟巻きを整えながら、清家はなおも追及を緩めない。
「もし本当にかの女性を娶られるおつもりなら、いずれ誹りが白哉様に向けられるのは避けられませぬ。それでも宜しいと仰るか?」
一瞬だけ、白哉は目を伏せた。
それは迷う為ではなく、自分の意志の固さを確認する為に。ただ一人の想う相手が脳裏で像を結んだ時、白哉はしっかと強く頷いた。
「ああ」
微塵の曇りもない。澄んだ決意を眼に乗せて、白哉は目蓋を開く。もう一度、真摯に眼前の相手に宣言した。
「・・・それでもだ」
「・・・・・・左様でしたらどうぞご随意に、御心の望まれる侭になさいませ。私は只、老中として主人の意に従うだけにございます」
銀白風花紗を整えた清家は一礼して諦めを含んだかのようにくるりと踵を返した。立ち去ろうと歩むその前に、「清家、」とその背中を呼んだ。
「頼みがある。・・・倣岸な願いだ」
継ぐ言葉を迷った沈黙がしばし続いた。清家は背を向けたままで先を待つ。
「これからも私を支え続けていて欲しい。お前が味方でいてくれぬと私は、・・・相当に参る」
選んだ果てに出た言葉の、稚拙で真摯な願いを耳にして、清家は大きく、大きく息を吸い、溜息のように吐き出した。
「・・・改めて願われるまでもございません」
諦めを含んだような声音と共に振り返ったその瞳はどこか優しく、口元には苦笑いの影すらあった。
「それこそ私のもっとも大事な勤めにございますゆえ。・・・ただ、口煩い分に関しては多少、御容赦戴きたく」
「・・・ああ」
どこか安堵したように、白哉は小さく頷いた。
「頼む。これからも」
「御意の侭に。・・・では、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
「行って参る」
頭を下げている間に、青年は正絹に風をはらませながら望む場所へと出掛けていった。
「これで・・・宜しゅうございますね。銀嶺様、蒼純様・・・」
淀みなく歩を進める主人の背が、やがて光溢れる道に小さく消えていく。青年が去った春の彼方は、老人の目にはひたすら眩く思われた。・・・そして、それで良かった。


 ●


籠は正規の許可証によって瀞霊廷への門を通過し、整備の行き届いた街路を進んだ。緋真には小さな窓越しに見える町並みすべてが珍しい。見慣れていた殺伐とした流魂街ではなく、これからここが自分の生きていく街なのだという実感が伴わず、半ば呆けたように外を眺めていた。
やがて『お屋敷まではあともう少しですよ』と人夫から声が掛けられる。籠は大きく清い川沿いの道を進んでいた。すゑの姪夫婦が住まう地域は瀞霊廷の内部でも鄙びたところなのか、目に付く緑が多くなっていた。
すゑの縁故であるということと、すゑ自身の説明により、これから自分が養女に入る家は至極真っ当で緋真を温かく迎え入れるつもりなのだと聞いてはいた。だが、緋真の胸のうちでは新たな生活に関る不安と、自分のような者が白哉とこれから共に歩むのだという事実が今更のように心を縛っていた。消しきれぬ漠たる不安に心は落ち着かず、長閑な風景も緋真は堪能できずにやがて小さく膝に顔を埋めた。
目を閉じてしまうと眦に浮かぶのは別れたばかりのすゑや子ども達の姿ばかりで、抑えた涙がまた滲みそうになる。泣いては駄目、と緋真が小さく首を振ったその時、籠が止まった。
目的の屋敷に到着したのか思い外を見ても、未だにここは川沿いの広い道の間中だ。家屋らしきものはない。
籠負いの人夫が誰かと話している声が漏れ聞こえる。思わず窓から少し顔を出してそっと外を見れば、人夫と言葉を交わしている長身の人影がまず目に入る。緋真の唇からあっと声が漏れた。
「・・・白哉さま!?」
声を耳にしたのか振り返った人物はまさに白哉その人で、緋真の姿を認めると鋭い相貌が僅かに細められた。見慣れない綺麗な色の襟巻きを身につけ、それがとてもよく似合っていた。
「どうして、こちらへ・・・」
確かに今日、高葦の家に入ることは白哉の耳にも入っている筈ではあったが。先方に挨拶に訪れる可能性は考えてはいても、まさかその途上で会うことになるとは思っていなかった緋真はただ驚く。その様子を見た白哉は些か声を落とした。
「・・・迷惑か」
「いえ、そんなことありません!」
即座かつ全力の否定に白哉は苦笑ったようにまた目を細めた。
「目的の家まではあと少しであろう。共に歩いて行かぬか」
「・・・は、はいっ!」
緋真に否やのある筈もない。先程の形のない不安はすっかり上塗られて安堵が緋真を包んでいた。

荷物のみ先方に届けておくよう言いつけると、白哉は緋真の手をとって籠から降ろす。すゑから譲られた青の着物は緋真の清楚さを際立た、春の空気にもしっくり良く馴染んでいた。
ざり、ざりと整った砂利を踏む二人の足音が規則正しく響く。思えばここ暫く、高葦家との擦り合わせだ支度だと主に緋真の側が忙しく、こうして並んで歩くことなど久々のことだった。
ふと、出し抜けに白哉が口を開いた。
「そういえば・・・一つ、謝らねばならぬな」
「え?」
予想もしなかった言葉に緋真の脳裏を疑問が飛び交う。自分が謝らねばならない事こそ沢山あれど、白哉から謝罪されねばならないようなことは一つもない。だがやけに白哉は深刻そうな目で、軽く頭まで下げた。
「以前、お前を夜鷹と疑ったことだ・・・済まなかった」
「いえ、そんな! 誤解されても仕方のない場所にいたのですし、そのことについてはあのあの後でおばあちゃんにも散々謝られてしまいましたし。『無駄な誤解をさせてしまった』って」
「そうか・・・」
白哉は顎に手をあて、あの頃の三人三様の空回りや真摯さに思いを馳せる。ついこの間のことのような、それでいて遠い日だったような・・・まだ自分がこの娘への想いに明確に気付きさえしなかったあの頃、今こうして二人で歩くことなど考えたこともない。無論、・・・望んでいた以上の幸福だった。
「あの、白哉さま」
緋真の方はしばしの沈黙に耐え切れなくなったのか、下を向いたままで小さく呟いた。
「わたし、ちょっと、その、・・・ふ、不謹慎なことを言います」
「不謹慎?」
訝しげに白哉に問い返され、緋真はますます下を向いてしまった。
「今思い返すと、本当ははわたし、少しだけ・・・嬉しかったのかもしれません」
「嬉しかった?」
沈黙と、しばしの逡巡。辛抱強く待った白哉の耳にやがて小さく緋真の告白が届く。
「あの・・・、その、白哉さまが、わたしのことで・・・・・・怒って下さって、っ」
「・・・・・・」
記憶を手繰った白哉はかるく上方を仰いだ。緋真が身を売っていたと誤解した際の自分の有様は、いま思えば滑稽なほどに真剣で、あの時からとうに自分は、緋真への想いに我を忘れていたのだ。
小さく縮こまったかの少女を見遣ると、同じくあの時のことを思い出しているのか、耳まで赤くして俯いている。白哉にとっては多分に消し去りたい思いに駆られる記憶だが、緋真にとって嬉しかったというのならば自分の恥はさておいて、・・・悪くはないような気が、少し、していた。
「・・・手だ」
「はい?」
ふいに、前を向いたままの白哉が緋真に左手を差し出す。固い声に緋真は一瞬驚くが、白哉はずい、とまたも手を突き出した。
「手を」
もう一度言われてようやく、なかば憮然と前方を睨んでいるようにも見える白哉の頬が、ほんの僅かだけ染まっていることに緋真は気付く。慌てて自分の手を伸ばし、ゆっくりと掌を重ねると、やがてしっかりと握り合った。
そのまま手を繋いで白哉と緋真は歩みを進めた。
僅かな緊張で固かった二つの掌はやがて、時間の経つごとに程好く力が抜けて互いの小さな温もりを喜びあう。
それから、これから緋真が世話になる家は相当に人の良い夫婦であるらしいこと、流魂街の家での別れの挨拶のことなどを語り合った。
「そうだ、これ・・・おばあちゃんが縫って持たせてくれたんです」
緋真は懐に仕舞った手拭いを取り出した。生成りのそれは、二粒三粒ほどか、水滴を拭いたような名残があるように見えた。古いものではない、つい先ごろに水が染み込んだような形跡が。・・・恐らくは、別れの際に涙を拭いた跡なのだろうと白哉は察した。
見せられた手拭いを手に取ると、白哉は刺繍の精緻さに驚きやがて小さく頷いた。
「・・・牡丹か。緋色の」
「ええ。わたしの名前に緋がつくから、赤い花ということで牡丹をあしらってくれたのでしょうね、きっと」
嬉しそうに微笑んでいる緋真の推測した理由も確かにあるだろう。だが、白哉は異なる意味をこの牡丹に見出していた。
牡丹に宿る朝露。それは獅子が唯一の天敵である身中の害蟲を降す特効薬なのだという伝説がある。故に無双を誇る獅子が心穏やかに眠りにつける唯一の場所が牡丹の根元であると。
即ちこれは緋真に、獅子の愛でる牡丹の如く君美しく穏やかにあれ、といった処なのだろう。すゑの意図を察して白哉は大きく頷いた。
「白哉さま?」
「いや、・・・何でもない。すゑ殿は、本当にお前を思い遣っているのだな」
「・・・はい!」
少しだけ泣きそうだった緋真の笑顔は白哉には掛け値なしに眩しく映った。いずれ、前方に待ち受けているであろう数多の困苦を乗り越えて緋真を家に迎えた時、この意匠を教えてやろう。その為ならば自分は獅子のように強く誇りやかに何時如何なる時も牡丹の華をこそ守り通そう。彼は密かにそう心に決める。固く、決して揺るぎなく。
いつになるか分からぬ、しかし必ず訪れるその日が待ち遠しく思えて、白哉は小さな掌を再び温かく包み込んだ。

春ひなか、暖気に誘われて何処かの梢で鳥が囀る。光溢れる春への喜びのように朗らかに、その声は祝福のように共に歩む二人へと届いた。いつまでも、心地よく耳の奥に残る。
白哉の手を握る小さな手が僅かに力を増した。
「白哉さまが離すまで、わたしは・・・お傍におります」
真っ直ぐな視線と共に宣言は白哉に届けられた。そこには最早迷いはない。緋真の、ただただ強い意志が確かに開花していた。
「わたしのような者が、もし、お気に召さなくなったら。・・・どうかお捨て置き下さいね」
「離さぬ。必ず、必ず・・・私はお前を、朽木の家に迎える。・・・妻として」
手は離さぬまま、空いた側の掌で頬を撫ぜれば、緋真のもう片方の掌がやはりそっと添えられた。

「諸共に」
「はい」
「永劫にだ」
「はい」

真摯に過ぎるほどに一つひとつの想いを確認し、一つひとつの答えに喜ぶ。
これから長い間、ずっと自分たちはこうして時間を掛けながら、長い刻を共に生きていくのだ。

この上なく美しい春の日と共に。二人の胸裏には温かな予感だけが満たされていた。

『はい、白哉さま。緋真は、ずっと・・・』




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