『 狂生の手 』
  − six feet under −



「桜の下には死体があるんだそうです」
だから奇麗な花が咲くんですって、と。あの時彼女は言ったのだ。



春の宵。人の息遣いさえ聞こえそうに静かで、しかし何者の気配もない。生温い空気と花の香りが鬱陶しいほど纏わりつく夜のひととき。
ぽかりと開いた円い窓が夜空を切り取り、ちょうど真中にはほの白い三日月。細いながらに、淡い光を室内に送る。

藍染は明りも灯さずに窓辺に佇んでいた。所用から自室に戻り、幾刻かが経っている。
彼は月光を受けながら己の手を見ていた。いつか彼女が奇麗なかたちだと言った両手。均整のとれたその一対の器官は、しかしよく見れば些か皮膚が荒れてけば立っている。それはまるで幾度も幾度も手を冷水で洗ったかのように。あるはずのない深く染み付いた血痕を見いだすかの如くに、彼はぼやけた目で手を凝視していた。
掌が月光に照らされて仄かに温かいような錯覚がある。しかし勿論陽の光とは違い体を温めてはくれない。その代わり、より確かに、雛森の温かみが残っているように感じられる。先程触れた彼女の温もり。滑らかすぎて爬虫類めいた感覚さえ覚える表皮。表皮が包む細い首。その中にある動脈が塞き止められてどくどく暴れていた。
この掌が全て覚えている。――――先程、この両手で締めた細い細い首の感触を。





桜の下なんかを彼ら二人が通ったのは、まったくの偶然だったのだ。
よくある所用が長引いた帰り道。日はとうに落ちて春の闇。たまたま帰り道となった桜並木の下を、藍染と雛森は歩いていた。
桜はいつ植えられたものかどれも立派で、余分な枝を切り落としたり薬を塗ってあったりと良く丹精されている。木は手をかけられて大きく育ち、豊かに枝をつけている。その桜の列の間を、二人は歩いていた。藍染が一歩先を行き、花闇に白く浮かぶ背を雛森が追う。花も終わりに差し掛かったか、辺りは桜の花弁がとめどなく舞い落ちる。
無遠慮に降り注ぐ花びらの中、彼らは他愛の無い話をしていた。主に雛森が話しかけ、藍染が応える。いつものようにとりとめもなく、ともすれば退屈な内容を。

「このあいだ七緒さ・・・伊勢副隊長に本をお借りしたんですよ。良い本を貸して下さるというお話なので早速」
「へえ、相変わらず雛森君は熱心だねえ。勉強家だ」
「そ、そんなことはないですけど」
褒められて照れ笑いながらも謙遜する。実際雛森はよく本を読む。もともとは藍染が読書家であるので、彼の読んだ本を自分も探して読むうちに自身も相当な量を読むことになり、同じ趣味の仲間ができてからは益々本に没頭するようになったのである。読書の動機が動機なだけに雛森は本好きだの読書家だの言われるのに戸惑っているのだが。
「こっちの本?」
「いえ、現世の人が書いた本です。短編集でした。現世の物語って、死神と考え方が違って面白いですねえ」
「確かにそれはあるかもしれない。死神なんて職で何年も何十年も同じ仕事ばかりしていると違った視点というのは新鮮だろうね。気に入った話はある?」
「ええ。全部良かったんですけど、なかでも桜に関するお話が」
嬉しそうに雛森は語る。藍染にうまく説明しようとその話を思い出し、少し考えていた。
「ええと、とても短いお話なんですけど、なんでも桜の下には死体があるそうなんです」
雛森は手近な桜の木を指差すと、幹と土の接するあたりを指した。その指を、ゆっくり上げて満開の花を示す。
「すべての桜の根元には死体が埋まっていて、根がその養分を吸い取っているから、だから桜は奇麗な花が咲くんですって。そういう夢想のお話です」
「ああ、それ、僕も読んだ事があるよ」
「藍染隊長も?」
同じ物語を読んでいたと知り、雛森は笑顔になる。隠す意図などまるでない表情を見て取り、藍染はかるく苦笑う。
「桜の下に死体、か。もちろんそれは空想の話だけど、読んだ時に現世の人は面白い事を考えるものだと感心したよ。われわれ死神は生死のしくみが分かっているから、現世の死を生き物の課程の一つだとしか考えないけど、彼らにとっては死は完全な『終り』なんだろうね」
「・・・終り・・・」
言葉の意味するところは消滅と同義である。雛森は考える。現世の者は死すれば尸魂界に移り、尸魂界の者は現世に転生する。基本的に魂は転生し消滅することはない。
だが、それを知らぬ人間はたかだか数十年の生をそれ限りとして生きているのだろうか。だとすれば。だとすれば・・・彼らは終焉たる死を、消滅を、どれだけ畏れるものなのだろう。そして魂なき骸に根を這わせて咲かされた花を・・・どれだけ畏れるのだろう。
あの話の根底に流れる観念を想像し、ぞくりと雛森の背筋がさざめいた。
「現世では死を敬ったり恐れたり・・・そういう考え方が根底にあるからこの物語の死体云々という空想が意味を持つんだろうね。雛森君はこの話、好きかい?」
「はい。なんだか恐ろしいですけど、・・・でも、」
「でも?」
「死んで桜の花を綺麗に咲かせられるなら、それもいいかもしれない、と思います」
「斬新な意見だ」
おかしな事を言っただろうかと戸惑う雛森に、藍染は微笑んだ。それきりまた前を向いて歩き始めてしまい、雛森は「藍染隊長は桜をお好きですか?」と聞きそびれる。

しばし、無言で藍染と雛森は歩く。二人の短い隔たりの間を桜の花びらが降り落ちていく。藍染の白い羽織にそれらが重なるとまるで血痕のように色が濃い、そう雛森は考えてすぐに打ち消す。そうして沈黙のなかで藍染の背を見つめていると、突然その背が歩みを止めた。
とある桜の木の根元。他のものよりも大きい木のようだった。その上、この大木だけいやに花の色が濃いように思われる。
「ねえ、雛森君」
背を向けたままで藍染が言う。
「はい」
「桜の木の下に死体があるというのは現実の話ではないけれど、人の骨粉を桜の根元に撒くと、花の色が濃くなるんだそうだ」
宵闇。遠くに月。そして紅すぎる桜。舞う花びらに混じり、空気が一段、なま温くなったように雛森は感じた。有機物が発酵した種類の温もり。その臭いすら嗅いだように思えて雛森の息が一瞬止まり、唇が勝手に震えはじめる。
「・・・本当、ですか」
「本当だよ」
藍染の大きな背が振り返った。音はない。隊長の表情はきっと普段と違う。そんな雛森のささやかな予感は当たった。

「本当なんだ」
冷酷な光が。狂気が、彼の眼に宿っていた。
そして藍染はゆっくりと両の手を伸ばす。動くことを忘れた雛森の髪に触れ、頬に触れ、そして首筋に。凍った思考の隅で、藍染の手のざらつきに気付く。何故、事務処理ばかりの隊長職であるこの人が、こんなに荒れた手をしているのだろうか。まるで幾度も血に濡れ、乾くひまも無かった人殺しの手のような。 死肉の養分を吸うために伸ばされた、残酷な桜の根のような。・・・
ざらざらと肌を滑る固い指先が自分の首を包み、力が加えられたのを感じて雛森の精神と肉体は悟る。殺される。今この場所でこの人は私を殺そうとしている。
瞬間、全身を恐怖が駆け抜けて彼女は先程の話を思い出す。人間が死を終焉だと考えているから怖がるだなんて嘘だ。魂の転生があるのを知っている自分も、怖い。
死にたくない。死にたくない!

雛森は一言も発せぬまま手の主を見つめた。薄闇の向こうに狂気に彩られた藍染の顔。そしてその瞳の奥には、濃すぎた桜の花弁に似たひかり。美しくて、哀しい。
ああ。こんなものを抱いたまま、この人はどこに向かうのか。すべてを超越した悟りの境地か、或いは無明の狂気の沙汰か。・・・どちらでもいい。
私の血肉を奉げてこの人が満たされるならば。私は、どちらでも、いい。

僅かな抵抗として強張られた雛森の首から、全身から、力が抜け去る。恐怖に彩られた顔からは表情が消え、やがて微笑んだように目が細められた。その目が完全に閉じたれた瞬間、あれ程しっかりと首を捉えていた手は離れる。
瞬間のことに雛森が瞼を開ければ、もう背を向けて藍染は歩み去りはじめていた。

「帰ろう」
「はい・・・」

なにごとも無かったかのように白い背は再び桜並木を進み、雛森もまた続く。
麻痺したような頭で雛森が足もとを見れば、惜しげもなく散り去った無数の花弁が地に敷き詰められていた。
真っ白な花弁も色濃い花弁も、すべて一緒くたに。

下の土が見えないほどにばら蒔かれたそれらを踏みしめ、雛森はどちらの花の花びらも結局は等しく養分になるのだと、なかば麻痺した頭で考えた。





藍染はしばしの間自分の手を見つめ、先の狂った遣り取りを思い出していた。
手で。この手で殺しかけたあの少女。あの時自分は確かに雛森を絞め殺そうと思ったのだ。本人が言ったではないか、死んで桜の花を奇麗に咲かせられるのならそれもいいと。ならば望みは叶えられるべきだ。これはけっして狂気などではない。慈悲だ。
そう、慈悲なのだ。いずれこの身はこの場所を去る。永の野望を叶えるために欺いてきた全ての者たちに真実と死を突き付ける。
その時にもっとも心傷つくのは雛森だ。自分を信じて自分のために生きてきた愚かな人形。彼女が彼女の信じている温かい嘘の只中にいるうちにその生を終えさせてやることが、彼女にとって最大の慈悲だ。

しかし藍染は実行することが出来なかった。
彼の脳裏に、殺されんとした時の雛森の顔が浮かんでくる。驚きも恐怖も消えた、ましてや諦念でもないあのあえかな微笑。
死して桜の養分となることを喜んでいたのか? ―――違う。彼女は自分を見て死を決心したのだ。私の為に。桜ではなく私の為に、彼女は瞳を閉じたのだ―――。

藍染は更に想う。雛森が自らを差し出した瞬間、彼女を殺さずに手を弛めた自分に芽生えていた不可思議な感情を。
雛森の能力が惜しくなったか? いや違う。彼女の役割はもう既に終えたも同然。長年温めてきた計画に着手するのは間もなくであり、あの少女を消すのなら今がもっとも適切だったろう。しかし結果、藍染には出来なかったのだ。
堪え切れずに、藍染は手を握り締めた。声なき慟哭が喉を圧迫する。脂汗がひとすじ額を伝う。纏わりつく温い空気が疎ましい。
とにかく腹立たしい。愚かな繰り人形の癖に言いようのない、自分の及ばぬ清廉さをみせる雛森も、訳のわからぬ感情で手を下せなかった自分も。―――腹立たしい。

そして憤怒と自責の果てに、虚ろな決心が藍染を侵食する。
いつか然るべき時に、自分はもっとも卑劣な策を弄して雛森を傷つけてやろう。
安穏と桜の下などに埋めてはやらぬ。自己を傷つけ他者を傷つけ、茨の道を歩ませた果てに、この手で幕を引いてやろう。

そうせねば己を許せぬ。いかなる瑕瑾をも私は許さぬ。
この心に巣食う曖昧模糊とした情動を誹り、すべて計算ずくで彼女を引き裂いてやらねば、そうせねば、私は――・・・・・・。

藍染は無意識に己の胸を掻き毟った。身を焼く毒を呑んだ獣のように自身の身体に爪を立てても、心とやらは無くならなかった。




藍染とまるで同じに、雛森は私室で思案していた。
窓辺に座り月を見上げる。手が無意識に首へと触れた。
夢だったのだろうか。そう雛森は考える。しかし幻の類にしては余りにも生々しく藍染に締められた感触が残っている。それに、鏡を見るとうっすら紅く、藍染の両手の痕が残っていた。

温厚な藍染がどうしてあんな事をしたのだろうか。帰宅して先程のことが現実だと認識するごとに、雛森の疑問は大きくなる。あの時、確かに彼は自分を殺すつもりだった。ただの気まぐれや冗談の類ではない、本物の狂気。なぜ、どうしてという問いが雛森の心を占めて繰り返される。

しかし同時に、雛森はあの時、藍染の手にかけられることを望んでいた自分がいたのを知っている。
桜の養分になることを、美しくて悲しい目をしたあの人を満たすことを、強く強く望んでいたのだ。

触れられ、瞳の深遠を覗くことを赦された瞬間に、
あの手で縊り殺されることを望んだ私は、花に狂っていただろうか。




満開の桜咲く春の宵。埋めようのないほど離れた各々の心を抱いて、二人は同じ月を見ていた。
失われ、もう取り戻せない時間が多すぎる。


桜なんかに彼らは狂わされたのだ。





  《 俺には慘劇が必要なんだ。その平衡があつて、はじめて俺の心象は明確になつて來る。》
                         ―――― 『 櫻の樹の下には 』梶井基次郎



   Fin.


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