大きくて綺麗な手を天空に差し伸べ、ぴっと人差し指を立てる。
それから指先に意識を集中するみたいに目を瞑って、しばらく、風の向きを感じる。

あたしは藍染隊長がそうやって天気を読んでいる姿が好きだった。

そして、隊長は空を指したまま、半眼でひどく真剣に天頂を見つめる。
『風が変わった。まとまった雨がくるよ。そのうち西の空から黒い雲が沸く』
確かな予言のようにそう言い、あたしは少し驚きながら空を見上げる。雲ひとつない空、雨など似つかわしくない。

口には出さなかった『まさか』という疑いは、やがて見事に覆されることになる。
ぬけるような夏の空は夕方が近づくにつれて西から黒い雲を招き入れた。遠雷が響く頃には地面に雫がひとつ、ふたつ。あの予言から一刻もしないうちに、藍染隊長が言った通りのひどい降りになった。

『すごい』
大粒の雨が降りしだいているのを執務室の窓から確認して、あたしは感嘆する。
隊長は自分の予報が当たったことに満足しているのか、微笑みながらあたしの隣に立って、外を眺めた。
『まるで藍染隊長は雨を喚べるみたいですね』
褒め称えたつもりでそう言うと、隊長は少し驚いたように眉を上げ、それから目を細めた。
そして、くしゃりと。大きな手があたしの頭を撫でてくれる。嬉しくて、少し恥ずかしくて、あたしはきゅっと身体を縮めた。

本当は雨はあまり好きではないのだけれど、この人が隣にいるのなら、この人がこうして触れてくれるなら、雷雨でも世界の終わりでも何が来ても構わないと思った。


雨の日の記憶はあの手の温かさと共に。

そして。


刻み込まれた温度は小さく小さく燻り続け、今、あたしの凡てを焼き尽くす。



『 ファーレンハイト 』
  − nearly dead but still alive −



喉の奥から自分とは別の人みたいな声が出る。
「・・・以上が本日の業務です。討伐任務に携わる者は各分隊長の指示を的確に守るように」
低く、ゆっくり、重く、命令的な。
五番隊すべての人員を集めた朝礼の席、静寂の中で。あたしの声だけが響いていた。席官も分隊長も新人隊員も、手許の覚書に各々筆を動かすだけで、皆神妙な面持ちで指示に聴き入っている。

彼らに気づかれないように、あたしは小さく小さく息を吐いた。本来は自分ではなく白の羽織を纏うあの人が為していた仕事。それを副隊長に過ぎない自分が行なうなんて、以前は考えたこともなかった。
そしてさしたる問題もなく代わりに仕事を為し得てしまうだなんてことも、考えたことがなかった。

「質問はありますか」
「恐れながら、雛森副隊長、」

お決まりの『締めの一歩手前の合図』を口にした時、それまで静寂を保っていた隊員達の真中あたりで、一人の青年が手を挙げた。緊張で僅かに震える声。確か、今年統学院を卒業して入隊したばかりの新人隊員だ。どうぞ、と発言を促すと、強張る声音が震えを増した。
「藍染隊長について、その後、あの、何か手がかりは・・・」
その場にいたすべての者がざわりと身を硬くする気配がある。質問をした青年の周囲にいる隊員達はじろりと一様に彼を見やるか、小さく小突くかしていたようだ。
あたしはその青年を見ない。手許の書類の内容に意識を向けているふりをして、決して見ないようにする。
おそらく精一杯の勇気を以って声を挙げたであろう彼に、無機質な目線を向けてしまわぬように。

努めて、連絡事項を語った時と同じに冷静な声が出てくるよう、僅かな間だけ目を閉じた。
「・・・先の騒動で行方不明になられた藍染隊長、市丸隊長および東仙隊長については山本総隊長御自ら組織された特別隊が総力を挙げて調査中です。情報は総隊長の判断を以って開示されます」

つまり情報が与えられるまでは無駄な詮索は無用ということ。
総隊長の名が出た以上、副隊長の自分ですら何らの情報を持たないということ。
よってこの質問はいち隊員である彼が答えを得られるものではないということ。

視線を上げると、回答の意を心得たらしき彼は、一層恐縮して下を向いている。他の隊員達も、隊長の不在を改めて突きつけられたことに焦燥を感じているのか、歯痒そうに下を向いていた。
「・・・ですから、尚更のこと、」
あたしはできるだけ、できるだけ平素のような物言いになるよう努めて、ゆっくりと彼らに語りかける。
「藍染隊長がご無事で戻られるまで、我々五番隊から一人の欠員も出してはなりませんよ。気をつけて任務にあたって下さい」
一拍の静寂の後、全員が力強く「はい」と応じる。
あたしの喉は今日も正常に嘘を刻めたようだ。


 ●


散会の号令と共に殆どの隊員達が部屋を出た後、あたしは正座したまま手にした書類を確認していた。護廷内で自隊に割り振られている仕事に対する人員の配置に過不足は無いか、虚退治の要請に緊急で対応できる分隊の力配分は・・・。
隊を統べるために必要な情報を確認していた筈が、自分でも知らないうちに溜息でもでていたらしい。傍で分隊長に細かな指示をしていた三席が近寄り、大柄な身体を低く屈めて耳打ちする。
「・・・副隊長。お加減が悪いのでしたら、後は自分が」
「大丈夫よ。ありがとう」
心底心配してくれているのが有り難くて、申し訳なくて、あたしは出来るだけの笑顔で首を振る。それでもまだ心配そうな三席は何かを言いかけて止め、一礼して部屋を去っていった。

あたしだけが残された集会室は静かで、書類を捲る音だけが長く繰り返された。
藍染隊長が裏切り者としてこの瀞霊廷を去るに至った経緯はあたしが意識を取り戻してすぐの頃に聞いた。正しくは、目を覚ましてすぐに周囲の人に『藍染隊長は、』と訊きにかかったのだという。そのときのあたしの有り様なんて、自分ではまったく覚えていないのだけれど。

物理的な胸の痛みと共に予期していた現実は、人の口から確かになぞられていった。
やっぱり、真っ黒な現実だった。


その日から数週間後の今。つまり藍染隊長があたしを手にかけてから数ヶ月。
体力が回復したあたしは即時復帰を希望した。卯ノ花隊長は時間を置きなさいと再三諭して下さったけれど、隊長不在の五番隊を立て直さなければならないと、なかば押し切るような形で復職した。

なにせ、副隊長達とごく一部の席官が事実を知らされた以外、今回の三隊長謀反事件は公には『三隊長謎の失踪事件』とされていたのだ。 中央四十六室が全滅した今、総指令かつ総責任者たる山本総隊長のその指示は絶対だった。
一般隊員を動揺させてはならない、という表向きの配慮の他に、今回の事件が潜在する護廷への不満を持つ者の更なる反乱を呼び起こす可能性がある、という裏の理由に気づけない者は関係上層部の中にはいない。共通の敵を討つ為の意思統一よりも瑣末な手許の燻りを気にするとは。護廷の権威はここまで堕ちきっていた。

密かに憤る者はいた。不満を表に出すことを躊躇わぬ者も。けれど結局は誰も最善の策など持たず、隊長格のみで対抗勢力に臨まざるを得ない現状を諦めとともに受け入れるしかなかった。そもそも、隊長格以外では太刀打ちできる相手ではない。
車軸が傾斜する音を事実を知る誰もが聞いた。それでも、振り下ろすべき対象がはっきりしている以上、たとえ空ろであっても刃は握られる。

あたしはどうでもよかった。

隊長がいなくなって、あたしは病み上がりのままで不安と焦燥で満たされた五番隊を切り盛りするのに精一杯。
表向きは敵勢力に手傷を負わされたということになっているとは言え、発言権と責任を持つ立場として、やるべき事は山ほどあった。
幸い、五番隊の中であたしの他に唯一真相を知っている三席の助力を得て、なんとか通常業務を滞りなくこなせるまでに落ち着いた。先ほど質問した新人隊員のように、皆が皆平素の状態に落ち着いたという訳ではないけれど、不安な心を抱えたままでも日常の歯車は廻っていた。

たとえ軋みながらでも。あの人を抜きに、日常は。

書類の確認を追えて、強張った目を労わるように眉間を軽く揉む。長臥せりで体力が落ちていたこともあり、最近忙しさが身体を苛む。
都合が良かった。
目先のやるべきことに心を奪われていれば、あの日あたしが藍染隊長にされた事を、藍染隊長が兇徒として豹変した事実を思い返さずに済む。仕事に復帰するまで幾度も幾度も心の中で繰り返され、そのたびに精神を焼いてきた数多の問い。
肉体の傷がほぼ癒えても、その憂いが自分の内面を抉り疵が広がるだけなのだと気づいたから、あたしは復帰を希望したのだ。五番隊の為だという理由よりも、もしかしたら大きいのかも知れない。不純だとは気づいている。でも今さらそれが何だっていうの。

心が半分壊れたままで、それでも、あたしは軋みながら生きている。

静まり返った部屋の向こう、裏庭に面した窓から、現世任務に向かう分隊のきびきびとした声が聞こえる。あたしは座した傍らに置いた愛刀の存在を確認する。叛乱騒動の後、常時帯刀令は一度も下げられていない。その上、討伐部隊に万一のことあった場合は責任者として自分が真っ先に救出に向かわなければならない。
ふと、旅禍騒動の際、常時帯刀令が出た頃のことを思い出した。斬魄刀など持ちたくないと思っていた自分。その欺瞞と僅かな純真さを、今なら他人事のように笑ってしまえる。不安をすべて丸投げするようにあの部屋に赴いた夜のこと。見つめた大きな背中の主は、あたしを欺くための手紙をしたためている最中だった筈。あの頃からあたしは滑稽だったのだ。

そしてたぶん、今もなお。

あたしが意識を失っている間、山本総隊長によって特別隊、つまりは『敵』を斃す為に部隊が組織された。総隊長がみずから選んだ人員に加えて、有志が数名参戦を望んで先日現世に遣わされたという。日番谷くんと乱菊さんは自ら望んだ側だったと聞いた。
特別任務について二人はその内容をあたしに明かさなかった。だからあたしも聞かなかった。副隊長達に公にされない情報は、先の隊員に対するものと同じに『知らなくても良いこと』だから。あたしは、前線に携わらない人員だと既に周囲から決定づけられていたのだから。

だからあたしは、藍染隊長のいまを知らない。

焦りはあった。疑問だらけの中で都合のいい道筋を作ろうとありもしない一縷の希望を信じたがった。
『藍染隊長を殺すの?』
否定形の答えしか望まない振りをして訊いた疑問の罪深さを、あたしは根深く後悔し続ける。訊くべきではないことを訊くべきではない人に訊いた。
無理を言って通信で対面させて貰った幼馴染の表情がいまも目蓋の裏から去らない。まただ。また、無邪気さを装ったあたしの倣岸さは人を傷つける。混乱していただなんて言い訳はできない。総隊長が気を失わせてくれたのが、今は無性にありがたかった。

あれから百年も時が経ったような気がする。百年分の痛苦。蓄積し、尚も軋み続けている。
あたしの、負うべき痛みが、今もなお。

「雛森」
「・・・!」

一瞬、息が止まった。
思考の渦に埋もれている間に、自分のすぐ傍らまで人が来ていることに気づかなかった。
視線を上げると、砕蜂隊長が怪訝な顔をしてこちらを見下ろしていた。
「砕蜂隊長・・・済みません。ご来訪に気づかず呆けていたなんて・・・」
「構わん。病み上がりの者相手に目端の利いた対応など求めん」
畳に手をついて謝罪すると、砕蜂隊長は言い捨てた。どうやら本当に気に留めてはいないらしく、少し不機嫌そうないつもの表情であたしの正面に腰を下ろした。
「それよりも、話がある」
予想はついていた。意識を取り戻して以降、砕蜂隊長はあたしに繰り返し聞き取り調査をしている。なにせ首謀者の一番近くに居た副隊長だ。これまで色々な、色々なことを訊かれた。答えることは苦痛ではなかったけれど、一つ答えるたびに自分が無機質になっていくような感覚を憶えた。でも、断ることなんて許されていない。
「分かりました、では直ぐに刑軍統括棟に伺い・・・」
「ここで構わん」
腰を上げる気配もなく砕蜂隊長はそう言った。これまでは必ず刑軍の専用の部屋で、文言ひとつひとつまでも記されてきたのだけれど。
「追加の聴取ではないのですか」
「もうお前に訊くべきことは何もない。ただ、・・・藍染の執務室や居室を全て捜索し終えたと報告に来た」
「そう・・・ですか」
「今回の謀に関する物は何一つ残されていなかった。市丸と東仙も同じだ。・・・日常からうまく痕跡を消しつつ計画を進行させていたようだな」
砕蜂隊長は淡々と語る。現実を事実として。過去を結果として。そこに余計な感情を少しも入れずに、もうここにはいない人たちのことを語った。
かつての同胞。現在の「敵」についてのことを。
「目に見える物証に最早意味は無い。故に、この件に関しての調査は終わりだ。今日付けで禁踏扱いとしてきた区域は出入り自由となる。あと我々がすべきことは、・・・分かるな?」
「分かります」
あたしは伏せていた視線を左側に置いた斬魄刀へと滑らせる。常時帯刀令が出されて以降、傍から離れることはない愛刀。手にされる理由はこの身を守るためではない。すべては「敵」を、討つ為の。
「・・・分かっています」
今度は自分に対して頷く。刃を握る者たちに与えられた選択支なんて最初からひとつしかないのだ。・・・望むと望まざるとに拘らず。
「・・・」
砕蜂隊長が何かを言い淀む気配がある。言葉を探して結局言うのを止めた様子で、やがて袂を探ると小さな封筒を取り出した。
「加えて、お前にこれを渡しに来た」
「私にですか・・・?」
刑軍の紋が隅に入った封筒を受け取ると、中に紙片でも入っているのか、指先に微細な手ごたえがあった。
「藍染の文机近くの書類に紛れていた。何のためのものかは知らぬ。調査に役立つものだとも思えぬ。ただ、お前の名が記されている以上、渡しておくのが最良だろうと・・・そう思った」
あたしの名が? 書かれている? ・・・何に?
問おうとする前に砕蜂隊長は腰を上げた。
「用件は以上だ。邪魔をした」
淡々と用事を済ませて部屋を出ようとする様子に、いつものように畳に手をついて見送る。でも、なぜか今日は気配が去らない。不思議に思って頭を上げると、砕蜂隊長が襖の手前で立ち止まっていた。
「雛森」
「はい」
奇妙な沈黙。顔は前を向いたままでその表情は伺えない。
「安楽な道を選ぶのも茨の道を選ぶのも貴様の勝手だ。迷うなとも言わん。ただ、・・・拾った命は拾ったままにしておけ」
「・・・はい」
それだけ言い残して隊長は去って行った。その気配が廊下の向こうに遠ざかるまであたしは深く頭を下げる。
「誰もかれも皆、優しいね・・・」
畳に額をつけたまま、力が抜けてそのまま崩れ落ちそうになるのを堪える。『こんなあたしに、どうして』。声にならない声が胸を衝いて、それが呻きとして洩れ出ないように耐えながら、あたしは暫くそのままでいた。

あの事件以降、他人から向けられた厚意に対して鋭敏になれた気はする。その分、申し訳なさに身も焦げていく。大丈夫です砕蜂隊長。あたしは自死という道は選びません。選べません。ただ、・・・ただ、忘れることができないだけです。

精神が焼ける。それでも、今もあたしは、半分壊れた心で生きている。


 ●


午後からは禁踏指示が明けた五番隊首室の整理をすることにした。自ら仕事を引き受けてくれた三席が配慮したのか、隊首室の付近に人影はまったくない。あたしの足袋が床板を擦る音だけが廊下に響いた。
否が応なしにあの夜のことが思い出される。あの人が『暗殺』される前夜に隊首室に向かった夜のことが。旅禍が侵入しているというのに奇妙に静かだった冷たい空気が。
指先に冷えを感じる。感覚が鈍くなり始めた手を握りこんで、歩く速度を上げる。ほどなくしてその襖の前に辿りつく。中に人の気配は勿論、ない。
以前の習慣で『失礼致します』と勝手に言いそうになる自分の唇に、すこし呆れた。首を振り、無言のままで襖を開ける。当たり前に、当たり前にただの無人の隊首室だった。
想定しきっていた事実を目にして覚えたこの感覚は安心なのか痛みなのか、分からないままにして、鈍化した心のままあたしは入室する。

為すべきことは整理、というよりもあらゆるものの処分だった。もう此処にはいない、そして戻らない筈の『隊長』の痕跡を消すこと。いずれ、時を見て一連の事件が『隊長三名の行方不明』ではなく忌むべき謀反であると公にされるだろう。その時のために、すべてを処分しておかねばならない。まずは物品。それから裏切られた者達の想い。
そう、すべての残滓を。
それが三・五・九番隊の副隊長に課せられた仕事であり、各々の精神のためにも行なっておくべき義務だった。

実際に作業に取り掛かると、作業は一刻にも満たずに終わった。何も考えないようただ黙々と手を動かした所為もあるけれど、私物はおろか公的な書類や物品のほとんどが調査のために刑軍が持ち去った後だったからだ。家具調度のほかはそれこそ殆ど何も残ってはいない。
用意した木箱に納まったのは、古すぎる書類の束や日用品の一部。あの人が愛用していた硯と筆も一揃い含まれていた。
謀反の思惑を探るにはまるで用を為さないと判断されたそれらは、持ち主に再び必要とされることなく木箱の底に転がっている。机の棚にあった小物を纏めた布袋の中には金属の着火機もあった。手の中に納まるぐらいの平べったい箱。隊花の、馬酔木の文様が刻まれている。銀色のそれはやけに指に冷たく感じた。
あたしが、隊長の誕生日に贈ったものだった。

薄く哂う。これを贈った頃のあたしの浅はかさを。現世の雑誌に書いてあった『佳い殿方は佳い小物や煙草道具が似合う云々』という文言を真に受け、店員に進められるままにこの品を選んだ。馬酔木の文様を彫って貰うように注文までして、煙草などまるで吸わない筈の相手に。
伴われていたのは子ども染みて愚かな自己満足。哂うしかない。あの頃から、あたしは自ら堕ちていたのだ。

軽い木箱を抱えて縁側へと出、塀で隔絶された庭へと降りる。あの人がよく丹精していた庭木は荒れはじめ、本来なら刈り込まれる筈の若枝が奔放に伸びていた。いくつかの鉢植えは水を与える者もいなかったせいかほぼ全滅し、枝や茎をからからに乾かせて、軒先に並んでいた。
枯れた鉢植えの茎を手折って砂利の上に重ねる。風はほとんどない。かさかさと音がするそれに、あたしは手にした着火器で火をつけた。
白い煙がまっすぐ空に向かって上がる。火はまだ小さく儚い。そこに一枚、木箱から古い書類をくべると、火はたちまち赤い舌のようにぬめり出した。
一枚、また一枚と燃やしていく度に火は勢力を増した。硯も火の中心部に置く。愛用されていた筆も。山羊毛の筆先はすぐに焼け焦げて、一帯に特有のいやな臭いを広げた。

焼ける。侵食されていくように、あたしの心も火で舐められる。

文房具と雑貨を焼き終え、書類の最後の一枚を火に託す。木箱はもう空になってしまった。あの人が望んだことも、あたしが望んだことも、何一つここには残っていない。すべて焼け果てていく。
空虚だった。なにもかも。心が軋んで崩れる。なかば麻痺した自我だけが地面の上をうすぼんやりと漂ってるみたいだ。
そして悔恨。根深く侵蝕してもう離れない。
「・・・は、」
掻き毟られた心があまりに滑稽で、あたしは嗤う。しゃがみ込んで膝に頭を埋め、肩を震わせて。
「は、あはは、ははっ・・・」
狂えたらどれだけ楽だったろう、と思う。裏切られたことさえ忘れて、幻想の中だけであの人を思い続けていたなら、こんな痛苦は味わうことはなかったのに。
感傷に浸る事でさえ今のあたしにはおこがましいように思えて、あたしは無理に涙を拭う。襟元でかさりと音がして、先ほど砕蜂隊長に渡された封筒を思い出した。
刑軍が証拠品として保存しなかった以上は特段の意味があるものではないのだろうと思って、今まで中身を確認せずにいたのだ。封を切り、出てきたのは一枚の和紙。入念に調べられた痕跡か、細かく皺が寄っていた。

『雛森くんへ』

上等の墨で、書き出しの部分に、ただそれだけ。字は間違いなくあの人のもの。・・・恐らく、あの時あたしを騙すために届けられた手紙と同じものなんだろう。
中身には、あたしの宛名以外、何も書かれていなかった。ただ一点、本文の書き出しの部分に、筆を置いたような点だけが、彼の意図にならない意図を残すように、黒々と残っていた。
書き損じの一枚なのだろうか。書道の達人とされる彼にとって、そんなものは珍しいことだけれど。
「書くことを、迷ったのですか?」
自分に対してですらなく、あたしは呟く。否定形の答えしか期待できない問い。意味のない疑問を振り払うように、あたしは手にした手紙を火にくべた。
炎の舌に絡め捕られ、答えのないまま彼の字が燃やし尽くされる。焼け落ちる、その炎がいやに眩しくて、あたしは乾いた眼のために瞬いた。
立ち上がり、左手を空へと伸ばす。人差し指に意識を集中しても風は感じない。晴れているのに上空に薄く雲がかかっているのか、曖昧な青空からはこれからどう天気が変わるのか、その兆候すら掴めない。

示された指の矛先。半眼で空を睨んだその先にあるもの。あたしには何もわからない。雨が近いのか、遠いのかすら。そうして、あの人が天気を読む姿勢を真似ているうちに漸く気が付く。この格好は、まるで・・・
弓だ。弓を引く姿勢によく似ている。
「もしも、」
意識にも上らないまま、渦巻く感情が言葉になって口を突く。

「恋も愛もすべて捨てていたなら同じ地平を見させてくれましたか」

蒼穹に混沌の矢を番えて弓引き、そして、雨を喚んだあのひと。彼が睨んだ空の色は、望んだ地平は、もうあたしの手の届くところには無い。
どれだけ手を伸ばしても、
・・・もう、なにひとつ。

風が一陣吹き、かろうじて紙の形を保っていた灰を攫った。高く高く舞い上がり、やがて砕け去るのだろう。
朽ちた想いの残滓は。
あまりにも、あっけなく。
その灰を目で追うこともできず、ただ天を指したままの姿勢で、あたしは空ろに泣き続けた。


あたしは今も半分壊れた心で生きています。
隊長。藍染隊長。あなたは、


あなたは今もどこかで雨を喚んでいますか?



   Fin.


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