夜の朝顔ほど無粋なものはない、と卯ノ花は考える。
暁光とともに目覚める瑞々しい蕾の気配も、昼ひなかに朽ち逝く花弁のはかなさの予感さえなく、ただ暗い闇のなかに『いる』。息を潜めてくろぐろと『そこにいる』だけ。
けれどもその蔓といったら、夜気を吸い取ったように静かに這い伸びては勢力を拡大しようとする。性質のわるい蛇のように思えて、昔からどうにも好きになれない。
だから朝顔を鉢植えで手許に置くなどというのは本来の彼女の趣味からはまったくかけ離れているのだ。
・・・ましてや、この種の朝顔の花は。



『 棄肉 』
  − The proof of the pudding is in the eating 2( at the end of perpetuation ). −



「四番隊長殿は鉢植えをお供に晩酌なさるんでしょうかね、っと」

沈思の夜、静寂は奇妙に間延びした声にて破られる。不快には思わなかった。
「盗み見とはあまり行儀のいいこととは思いませんよ。京楽隊長」
卯ノ花は自分が座している縁側から、声のした庭木の茂みに微笑む。すぐに、女物の着物を羽織った大男が頭についた木の葉を払いながら姿を見せた。
「ボクの気配なんてとっくの昔に気づいていた癖に」
「ふふ」
べつだん否定もせずに卯ノ花は目を伏せる。諒解も取らないまま、京楽は隣に腰を下ろした。酒の匂いがふっと鼻を突いたが男の目は濁っていない。むしろ、奇妙なほどに澄んでいた。
このような夜更け、寝巻きで月を見ながら手酌をしている女の傍に参るなど、状況だけみれば随分なものなのだが。昔からの馴染み、しかも職歴の上では卯ノ花が大先輩とあれば艶話とはまた違う意味合いを持つ。

京楽は無言で、持参した徳利を傾けて卯ノ花に薦めた。手持ちの杯で受けて軽く飲み下す。臭いがきつい濁り酒だが後味は思いのほか良い。京楽は自分も直に口をつけて、ぽつりと口にした。
「ぼちぼち、出陣ることになりそうでねえ」
「死出の旅路に出る前に一献と?」
「まさか。そんな酒の味が不味くなる呑み方しないよ。単にむさい戦場に行く前に美人さんの隣で存分に酔いつぶれてみたかっただけ」
いつものように茶化してはいるが、動じるでも相槌を打つでもない卯ノ花の表情に京楽はふうと溜息を吐く。自分の底を見透かし且つそれが嫌味でない者などこれまでの人生では数名しか出会ったことがない。そして彼女はその少ない中の一人である。・・・慈愛溢れる四番隊長であると同時に、実のところは名が示す通りの烈女。よく知る彼女であるからこそ絶大の信頼を以って、こうして自分は此処を訪れた訳だ。心の中で肩を竦めて、京楽は続けた。
「・・・藍染のことで、ちょっとさ。卯ノ花隊長の卓見を賜りたく、ね」
まるで事前に見透かしていたように卯ノ花は頷く。大規模な出陣前に彼が自分を訪れるのは大抵なにがしかの逡巡がある時だった。はっきりと口に出して意見を求めてくる時もあれば、肝心なことは何も云わずに軽口だけで私見を聞き出して去っていくこともあった。今回は前者のようだ。しかも、いつになく真剣な。
本来、我ら死神が敵を討つ際には些かの迷いも許されない。隊長職を長年務めているにもかかわらず、京楽の心根は奥の奥の部分が優しすぎるのだと卯ノ花は心得ていた。しかしそれがあるべからざることとも思わず、彼女は毎回こうしてささやかに過ぎる酒宴に付き合ってきた。
切り出すべき言葉を思案している京楽に卯ノ花はもう一度深く頷くと、傍らに置いていた朝顔の鉢をついと差し出す。
「これはね。藍染の持ち物だったのです」
「・・・藍染の?」
「例の旅禍騒動の、つまりあの男の反乱の少し前に『近々討伐で長く隊を空ける可能性があるので預かっていて欲しい』と、そう言われまして。特に断る理由もない為にその時は応じましたが・・・」
「反乱の首領が朝顔を育ててたなんてね。盆栽でこそないけど、藍染に浮竹みたいな趣味があるとは知らなかった」
両手にすとんと収まるほどの、しかし妙に背の高い鉢植えをしげしげと京楽は観察する。湿った土から伸びている葉と蔓はまぎれもなく朝顔なのに、茎からぬるりと一輪咲いた花が明らかにおかしい。灯篭に照らされたその色は昏い紫色で、やけにぼったりと厚向い花弁は中心部に向けて細かく皺がよっているのだ。なにより、朝顔というのは夜に咲くものではないから『朝顔』と呼ばれるのではなかったか。夜気に晒されてもふてぶてしく開花しているさまはひどく気味悪く思われた。
「・・・奇怪だねえ」
京楽は素直に感想を口に上らせた。
「毒草として扱われる亜種が混ざっているものなのではないかと思うのですが、確かなことは分かりません」
「なんでこんな気持ち悪いのを育てるんだか」
「現世で求めたものだそうですよ。出物と言われる突然変異の朝顔を珍重するのが流行だとかで」
ふうん、と首をひねりながら京楽はふたたび朝顔を眺める。美しくない、というよりもおよそ触れてみたくない種類の花だった。こんなものを有難がるとは、現世の人間の趣味も、藍染の気紛れも、およそ理解の埒外にある。
ご存知ですか、と卯ノ花がふと切り出した。静かな問いだ。
「次世代を残すことがないのですよ。これらの朝顔は殆どのものが」
「へえ」
言われてよく見てみれば、なるほど花芯には雌蕊雄蕊らしきものが認められない。受粉をしない、そもそも出来ないということだろう。京楽の脳裏にある言葉が浮かぶ。
「・・・秕・・・」
「ええ、秕。同義です」
しいな。中身の無い籾。即ち子孫を残すことのない果。そしてここにあるのは咲いたらそれでそれっきりの花。それも、いたく醜悪な。・・・今更でこそあるのだが、鉢のかつての持ち主の気質を疑う。こんなものをわざわざ取り寄せ、手元に置いた挙句にしかも、結局人に託すとは。

いつもよりも煽った酒量が多かったのか、うすぼんやりとしはじめた頭で京楽は藍染がこの鉢を手にした心境に想いを馳せる。何処へとも伸ばされた枝葉の末端で。この朝顔が意味のない結実さえ為すことが出来ないという事実を、一体どのような仮託を以ってあの男は眺めやっていたのだというのだろうか?
或いは優越。或いは諧謔。或いは、・・・親近?
まさか、と小さく呟いて京楽は手にした鉢を置く。どうも自分は卯ノ花を前にすると酒に呑まれる傾向があっていけない。それとも今宵は相応に疲れてでもいるというのか。
考えを振り切るように、微笑を湛えてこちらを見ている卯ノ花に水を向ける。
「そんで。そんな朝顔の鉢を相手になにを考えておられたのかな? 四番隊長殿は」
「思い出していたんです」
「何を? ・・・それとも、誰を?」
「私が新人の頃、救うことのできなかった一人の隊員のことを」
卯ノ花は語る。夜に静かに鳴く鳥を思わせる密やかな声で。
「・・・彼が私の目の前で虚に首を落とされ即死したさまを」
さらりと、編んで肩に流していた彼女の髪が涼やかに落ちた。その瞳だけが異様な深さでこちらを見ているのに気づき、京楽は反射的に視線を外した。意に介するふうもなく、彼女は穏やかな声で続ける。
「よくある討伐任務でのことです。私は今よりも若く未熟だったけれども、血とか死とか、そんなものは最早懼れてはいませんでした。ただ、己の使命にほんの少しの倣岸さを自覚しかけていた、よくいる新人の一人でした」
今日の天気の具合を語るかのように淡々とした語り口だった。まるで朗らかな相槌を聞き手に求めてでもいるかのような。
「その人は巨大虚の一撃で殺されました。しかし、その首が胴から離れて暫くの間、少なくとも私には暫くと感じられた時間、胴だけになった自分の体を見て泣いたのですよ。そして彼の体は頭を放されて脳からの命令など無いというのにばたばた手足を動かしていた」
死神として長い時間を生きた者なら誰しも一度や二度は目にする光景。無論、京楽自身も同じような死を見届けた事は一度や二度ではない。今となっては悼むことにも慣れ果ててしまった絶命の光景が、卯ノ花の口を通して語られるいま、なぜか胆の芯をじくじく冷やした。
「筋肉や脊髄の反射と言えばそれまで。ただ、心臓と肉体が脳を喪っても、脳が心臓と肉体を喪っても、時間軸において『同時』の死を意味しない。そんな事実が、あの頃、今更のように私には怖かった。・・・この朝顔のたたずまいは奇妙に静か過ぎて、」
語りながら卯ノ花は音もなく朝顔の鉢を引き寄せた。指の白さが闇に映える。
「あの頃の恐怖が、また足下から這いよってくる気がするのですよ」
朝顔を睥睨する横顔を見ながら京楽は頷いた。彼女の根深い不信に対して、ただ頷くしかなかった。
思い出したように持参した徳利から彼女の杯に酒を注ぐと、卯ノ花は軽々と飲み干した。酔いのいろがないまま、返杯をする。
「実のことを言えば・・・私は、藍染を殺したいのです。彼の存在自体を許すことができない。殺したくて殺したくて堪らないのです」
「・・・うん」
それについては京楽は既に十全に理解していた。卯ノ花とは長い付き合いではあるが、彼女がこれほどまでに殺意めいた感情を顕にしたことはない。指先へとふいに痺れが訪れる。手にした杯の中で酒が波打った。
「沽券の問題、だけじゃなさそうだね。職責を全うできなかったというだけで貴方がどこぞの六番隊長さんみたいに怒りに燃えるとは思えない」
敢えて核心の外側から話題を振る。藍染の一連の事件において彼女が犯した失態、即ち藍染の『遺体』を僅かな違和感のみを伴って『検死』したことについてである。
「隊長としての責は感じていますが、もちろんそれだけではありません」
もちろん、と言う声に殊更力が入る。
「わたしが確かめた藍染の『死体』は・・・今思い返しても、間違いなく魂の抜けた肉体そのものでした。血が通わなくなった皮膚の色、冷えた肉の感触、朽ちはじめた臓腑の匂い・・・いずれも本物としか思えなかったのです」
「でも、貴女はなにがしかの違和感を覚えたんでしょう?」
「ええ。わたしは検死をしながら、奇妙な感じを得ていた。実に精巧にわたしを騙した死体は余りに完璧で・・・本物の死体以上に『死体』だったために、ただその一点のために、わたしは目の前に提示されていた現実を疑問に思った」
中空を見据え、訥々と語っていたその言の葉を切って、卯ノ花は結論を口にする。
「つまり、藍染の術それ自体に綻びは無かったのです。我々の知覚に外部から作用し如何様にも欺き得るあの男の能力は。ご存知ですか・・・視覚野ひとつとて我々は我々の思うとおりに出来ぬことを」
「視覚野。・・・アタマの中の?」
「ええ。本来は自分でですら操れぬものを、彼は外部から、この朝顔を美しい蘭に見せることも空の月を消して新月だと思わせることも出来る」
ぞくり、と。これまで理解していたと思い込んでいた事実を改めて突きつけられて、京楽が首の裏あたりから血の抜け去るような感覚が走る。静かで昏い禁裏の井戸を覗き込んでしまったような恐怖。意識の部分ではない、本能の部分で警鐘が鳴る。こちらの異変を知ってか知らずか、卯ノ花は淡々と続けた。
「それだけではない、味覚、聴覚、触覚、嗅覚、触覚をもすら誤認させられることさえ在り得るとするなら。・・・ねえ、『貴方の目の前で話をしているのは本当に卯ノ花烈なのでしょうか?』」
「!」
傍らに置いた刀に咄嗟に京楽の手が反応する。が、指一本が動いたのみでかろうじて押しとどめた。「あぶない、あぶない」と苦笑いが洩れると、卯ノ花は済まなそうに頭を下げた。
「例示が良くありませんでしたね。ご安心下さい、わたくしは紛れも無くわたくしですよ」
「心臓に悪いなあ・・・。これでもボク繊細なんだから。あんまり脅かさないで」
道化たもの言いでも隠せぬ動揺が険のある目線から漏れ出す。卯ノ花は心底申し訳なさそうに頭を下げ、京楽の杯に酒を注ぐ。乾いた喉を湿すように煽った酒の味は、やけに苦く舌に滲みた。
「・・・どうしたものやらね。あの厄介な能力。術が発動しているのかどうかさえ判別がつかないような有様じゃ、まず勝ち目がない。あれじゃ・・・まるきり反則だ。ボク達が至るべき領域の上限を超えている」
「ええ、」
反則ですね、反則ですとも・・・と呟いては噛み締めるように卯ノ花は肯定する。各々、答えのない思案に暮れるようにして訪れた沈黙ののち、ぽつりと卯ノ花は切り出した。
「京楽隊長。・・・貴方は、色即是空という言葉のほんとうの意味をお解かりですか?」
「なに、いきなり」
「お答えいただけますか。お解り?」
唐突な質問に面食らった京楽だが、やけに深刻な表情に気圧される。幾ら酒を注いだとて鈍らない思考の芯の部分を動かして答えた。
「ええと、あれだ。この世の現象一切は空であり、続いて空即是色っていえば同時に空の一切は現象そのものであるっていう・・・それが、どしたの?」
「貴方は今それを過去に学んだことから引き出してお答えになりましたね」
「うん。餓鬼の頃に親父に読まされた本から覚えたと記憶してるけど・・・それがどしたの?」
卯ノ花の質問の意図がわからぬまま京楽は当惑するが、当の彼女は細い顎に美しい指を添えてしばし思案に暮れ、ようやく頭を上げた。
「・・・仮定の話をしても宜しいでしょうか。もし、もしもですよ。師や書から学ぶことなく、世の理を『体感』してしまった者がいたとしたら・・・」
「世の理って、・・・さっきの色即是空ってことを?」
「ええ。肉体によって知覚し得る己を取り巻くすべての物体、現象が・・・すべて己の脳で処理された故にそれが間違いでありうる。存在せざる可能性があるのだと、後天的に理解するのではなく、たとえば幼少期に『体感』することにより理解してしまったとしたら?」
「それは・・・」
色即是空、空即是色・・・それを、外部の膨大な情報を吸収することによって自我を確立する過程にある子どもが、その外部情報全てが『空』であるという前提を、ほぼ先天的に近い状態から刷り込まれて成長したらだと? そんなわけが・・・
しかし否定の材料を探そうとすればする程に、額に脂汗が浮き出すような嫌な想定へと突き当たる。
藍染の能力、それは彼の刀『鏡花水月』のものである。多くの死神はある程度の戦闘能力を身に付けてから自分ただ一人の為の斬魄刀を手にする。しかし、思い返してみれば幼少の頃から天才と云われ続けた日番谷少年はどうだ、市丸ギンはどうだ? いずれも少年期から既に固有の愛刀を手にしていたではないか。藍染の成長過程など京楽は知らないし憶測したこともなかったが、もしも彼が幼少期から知覚を操作できるような刀を手にしていたら・・・?
途方もない『仮定』である。しかし途方もないが故に、その場合に起こり得る悲劇は想像を絶する。京楽は「まさか、いや、でも」と呟くが、卯ノ花は躊躇なく結論を口にした。
「万物一切の現象は空なり。それを『体感』したものの末路はふたつ。人が本来足を踏み入れることのない悟りに至るか、気を違えるかでしょう」
「藍染の奴は、後者だと?」
「本人は前者だと思っているのかも知れませんよ」
「今まで聞いた中で最悪の冗談だ」
京楽の口からははっと声が洩れるが、とても心からは笑えそうにない。
「現は蝶の見る夢なりや、か・・・」
呟きは自嘲のようにも響いた。卯ノ花は斟酌を敢えてしないまま、こくりと頷いて微笑む。ひどく余所余所しい、冷たい笑みだった。
「あなたはあなたですか? わたくしはわたくしですか? そして、彼は彼だったのでしょうか?」
「なに、それ」
「知覚を信じられないということは自己認識ですら危うくなるということです。自己が認識する自己以外も自己自身も存在のあやふやさにおいては等価でしかない」
京楽は彼女の言葉を咀嚼しようと試みる、だが上手くいかない。空疎に耳を通り抜けようとする言葉を必死で捕まえて解釈するその隙を突くかのように、卯ノ花は手を緩めぬように語りつづける。
「弁証に最早意味は無い。ですが、わたくしは敢えて彼に問いたい」
卯ノ花の目が鋭さを増していくが、京楽は視線を外すことが叶わない。口腔が乾いた。
「虚ほなる思惟それ自体意味を持ち得ることすら忘れたまま」
ウツホナルシユイソレジタイイミヲモチウルコトスラワスレタママ、
「・・・其の果てにどんな楽土を求めていたのか」
ソノハテ、ニ、・・・
「?」
京楽は思わず、声を出して訊きそうになった。君は今何を口にしたのかと。そして同時に、自分が彼女の声を言語として認識できなくなっていたことに気付いて戦慄する。
彼女の口にする言の葉のひとつひとつが悉く瓦解し、ただの音そのものとして強制的に耳朶に流し込まれたような錯覚。わからない。『わかる』はずだった言語が最早『わからない』。肉体よりも意識がまず、この事態を懼れた。
同時に、無為に開きかけた口から意味を成す言葉が出ないことに気付く。試み、試みてそして、ようやく思い出した「うのはなさん」という彼女の名だけを明確な声にする。なかば、只の筋肉反射に近い。
「卯ノ花さん」
もう一度、繰り返し自らの声を耳で聞いて漸く、呪縛から逃れたように我に返る。咄嗟に大きく息を吐いた。心臓が不規則に鼓動する。脂汗が京楽のこめかみを流れた。
「趣味が悪い」
「申し訳ありません。誘導しました」
「・・・趣味と、人が悪い、な・・・」
それだけ呟くのが精一杯だった。・・・今の自分の体たらくはどうだ。自分を取り巻く世界の存在を信じられない。故に自分の存在をもすら自分で信じられない。その、一端の一端を垣間見ただけで精神はおろか肉体をもすら脅かされる。京楽はその精神力でもって努めてすぐに平静に戻り、卯ノ花の次の言葉を待った。
「手荒い真似をしてしまいました。ですが、わかって戴けましたか。我々には己の身の裡に踏み込むべきではない領域を有している。しかし藍染は人の其処を侵すのですよ。刀ごときの力を用いてね。・・・そして恐らくは自分の内部をも侵した。侵し尽くしてしまった」
諸刃の剣、などという使い古された言葉が京楽の脳裏をよぎる。しかしまさに諸刃の剣、他人の脳に侵食する者は、等しく自分の脳が侵食される危険を犯さねばならない。・・・持ち主の精神強度如何に拘わらず、である。
「蝶の見る夢に拘る必要などありません。普通の者は、ね」
「しかし藍染には拘るに充分な理由がある」
「ええ」
卯ノ花は自分自身にも言い聞かせるようにゆっくりと言葉を継いだ。
「しかしそれでも彼は拘るべきではありませんでした。たとえ、其処が如何に美しかろうとも、眼にすべきではないおぞましい有様であったとしても、現実のみに頭の先まで浸りきってそのまま死に朽ちていくべきだった」
我々死神の生き死にはもっと単純であるべきだったのだ。守るためでも義務のためでも誇りのためでも何でもいい、ただ戦って死ぬのでも臆病に逃げ回って生き延びるでもいい、単純に単純に、歯車を廻していくべきだったのだ。
「・・・なんの因果かねえ」
京楽がぽつりと呟いた。
「だからボク、頭のいい奴とやたら刀の能力が高い奴は嫌いだよ」
「私もです」
同意して、卯ノ花は笑った。渇いた笑いだった。
「ましてや、両方を備えた者は、・・・本当に嫌いです」
「そうだね」
もう杯を重ねることはせず、卯ノ花は目を伏せ、京楽は胡座の膝に頬杖をついて息をついた。静かだった。声高な悲嘆も無言の呪詛もここにはない。あるのはただあの男に対する、最早声に出して語られることのない錆びついた憐憫のみだった。
「・・・あの子は」
重く深い溜息ののち、京楽はぽつりと呟いた。
「あの子はなんなんだろうね」
「あの子というと?」
「雛森副隊長だよ」
藍染に欺かれ続けた挙句、暗殺騒動の手駒として、或いは嗜虐の道具としていいように利用され操られ挙句に血の海に沈められた五番隊副隊長。実をいえば京楽は今日の午後に彼女を見舞いに行ったばかりだった。見舞いといっても雛森は既に五番隊業務に復帰し、隊長不在の非常事態をうまく廻しているように傍目からは見えた。
明らかに無理をしていた。だからこそ妙な気遣いを押し付ける訳にもいかず、ただ軽口を叩いて『お勧めの新商品を広めてんの』と彼女の好みそうな和菓子を押し付けた。受け取った彼女の腕が以前にも増して細くなっているのに気づいた際、京楽の中で藍染への黒い感情が大きく渦を巻いた。・・・今日此処に来た理由の一つだった。
「藍染にとって、彼女はなんだったんだろうか。なぜあんな子をわざわざ・・・弄んでいったんだろうね」
霊王を殺したいならそうすればいい。世界を滅ぼしたいならそうすればいい。
だがなぜ、あんな華奢な少女一人の恋慕を踏みつけにしていく必要があったというのだ。藍染の野望が長大であればある程に、京楽はこの一点を納得しきることができない。
「雛森副隊長、ですか・・・」
卯ノ花も雛森の現状はよく知っている。藍染に刺され長く意識不明が続いた後もずっと、可能な限り診てきた患者だった。彼女を気に掛けてきたのには、それだけ貴重な人材であるから、同じ女であるからという理由も無論ある。だがそれだけではなく、卯ノ花の中で『この少女を死なせてはならない』という強い思いがあったのだ。
死神の統治するこの浮世が殺伐としているのは致し方ない。だがその中で、こうまで愚直で弱弱しくて・・・それ故に眩しい者が散々疵付けられた果てに死んでしまうなど、卯ノ花の良識と信念とが許さなかったのだ。
「憶測ですが、」
前置きして卯ノ花は顔を上げた。
「生きとし生ける者の根源が何かご存知ですね」
「卯ノ花さん、」
あからさまに眉間に皺を寄せ、京楽は首を横に振った。
「やめてくれ。頼む。こんな時にこれ以上悪い冗談なんざ聞きたくない」
「いいえ」
卯ノ花は断固として続けた。
「我々は知らねばなりません。あの男、或いは・・・本当に、本当に純粋な意味で彼女を認識していたのではないのでしょうか」
口に出してしまえば尚更ことの核心を突いてしまっているように思えて、卯ノ花自身も決して心地よくはない。しかしあの男を討つのならば、我々は其処から目を逸らす訳にはいかない。
「絶望的な世界認知の欠落において、二面的に存在した陽性の思惟・・・その対象が、彼女だったのでは?」
京楽の眉間の皺は深い。余りに途方もなく、余りに不快なこの推論を、しかし途中で異を差し挟むことはないまま卯ノ花の核心を避けた言い方が終わるのを待っていた。
「感傷的なもの言いは余り好きではないのですが、単純に言い換えるならばそれは、恋かと」
はあ、と大げさに、吐き棄てるように京楽は溜息をつく。
「難儀だね」
「難儀ですね」
喩えたならばそれは綻びとも言えたろう。絶望の為に死を希求するのか、死の為に絶望に陶酔するのか、手段と目的を履き違えたまま周囲を傷つける刃の鋭さだけはいや増してどんどんどんどん堕ちていくあの男の、
虚無にほど近い透明さに発狂したあの男の、
絶望を侵してしまう、・・・ひとつの恋。
「否定、・・・したかったのかな。狂気のどん底で、自分がひとを好きになっちまうとか、そういうことを。だから最後に全部無かったことにしたくて・・・」
「そうかもしれません。でも、それだけではないかもしれません」
卯ノ花は奇妙に尖った視線で安易な結論に一石を投じる。
「さきほど、藍染は知覚する外界すべてを疑い得ると申しあげたでしょう。それは他人、つまり雛森さんに対しても同じ。・・・では存在を信じられない対象に唯一干渉し得る手段はなんだと思われます?」
「・・・・・・まさか」
脳裏に浮かんだあまりといえばあまりの解答が受け容れがたく、京楽は飢える喉を潤そうと徳利に手をやった。杯に注がぬまま無意識に直接煽る。
「それですよ。存在が信じられなければ、存在を証明したくば、食らえば、・・・壊せばいい。存在を消滅させるその手触り只一つこそ、彼にとっての外界との接触方法なのではないでしょうか」
何も云えぬままに飲み下した酒の苦味が、僅かな吐気と共に京楽の喉を刺していた。
「だから、あいつはあの子を壊し続けるのか」
京楽は無為に空を見上げた。しかし星空を眺めることはなく、目蓋を覆うように眉間を押さえた。
聴覚も嗅覚も味覚も視覚も、感覚も、すべて凍て付いた白い砂漠の果てで彼の手を握ってしまったのかもしれない温かな彼女。その想いもろともに血に染め上げなければ気が済まなかったというのか?
その末路があれだ。恋の残骸に縋り付いて痩せ果てた無力な女。男の手にかけられて死なせて貰うことさえ叶わなかった女が・・・ただ、独りきりで。
「世界もあの子のこともすべて、破壊することでしか愛せないなんてね」
「愚かですね」
怜悧な断言にひとすじの哀しみを含ませて、卯ノ花は首を振った。
「たとえ結実することのない蜜なき花であっても、花の形をしている限りは蝶は舞い寄る。・・・人は人としての感情から逃れ得はしないのに。破壊などでは否定にも肯定にもなりはしないのに」
卯ノ花はもう一度、断罪の言葉を繰り返した。
「藍染は、愚かです」

がしゃん

存外大きな音と共に、落ちた鉢が微塵に砕けた。
京楽が朝顔を縁側から地面に叩き落したのだった。
敷石に激突してばらばらに散った土と鉢の破片の下で、奇態な朝顔は奇態なままぐにゃりと地面に張り付いた。
「・・・莫迦野郎が」
京楽はみずから引導を下した鉢に一瞥もせぬまま、怒りとも悲嘆ともつかない声を搾り出す。
「自分が自分でいるのが正しい事なのかと訊きさえすれば、あの子は頷いてくれたろうに。それだけで、・・・それだけで、全ては・・・」
最後は言葉にならなかった。灯火から影になって見えないが、卯ノ花は京楽が泣いている、或いはそれに近い状態なのだと確かに感じた。或いは京楽の消し去れぬ優しさが彼をそうさせたのかもしれないし、彼が男であったからなのかも知れない。何れにせよ、卯ノ花には慮ることしかできない。女でありすぎる彼女には。
「莫迦だ。ほんとうに、莫迦だよ。・・・惣右介くん・・・」
京楽は肺の底から搾り出し、険しい眼で中空を睨みやった。
「終わらせてやらなきゃいけないんだねえ」
「終わらせねばなりません」
そうです、と静かに頷いて卯ノ花は肯定する。
「わたくし達も、最早それしか」
卯ノ花は言葉を捜す一瞬の間だけ、打ち棄てられた朝顔の鉢に目をやった。修復は、不可能だった。そうする必要も最早、無い。

「殺すことでしか、もう、彼と関わることができないのです」

京楽は徳利を傾けた。既に空なのを分かっていながら僅かに落ちる酒の雫を数えて、一心に数えて、表情を傍らの女に気取られないようにした。 現実に藍染と相対する日が来た時、血に染め上げられた結末しか待ってはいないだろう。・・・少なくない確立でこちらが血塗れになるにしても。
だからこそ今のうちに。彼の深慮という名の狂気に想いを馳せられる今のうちに、凍て付いた孤独と絶望の壁に閉じ込められたあの娘に代わり、天を侵す者に問い掛けたいと願う。

なあ。お前が今いる場所から見えている地平は、
・・・本当に、お前が求めていたものに間違いないと断言できるのか?

徳利の最後の滴りが終わりかけるのを眺めながら、京楽の中でおぼろげな予感が形を結んだ。
雛森の血に錆びた声はおそらくもう藍染には届かないだろう。自分や卯ノ花ら元同胞が分かり合えない以上に、あの二人は絶対的に理解し合えない。それは藍染が最も、・・・最も拘泥している理由ただ一つ故に。

思考がうまく纏まらぬまま、京楽は自己に渇いた命題を問い掛ける。
彼女は。雛森は一体どういう結論を下すのだろうか?
大脳皮質の誤変換をまだ信じている彼女。一縷の希望をあの男に勝手に見出されながらそれと気付かず絶望の虚空に凋落し暗闇の淵で絶えずあの男の為に哀歌を歌い喉を干からびさせ血を吐き涙を流しながらそれでも、
それでも、生きている、

彼女ならば、・・・果たして。



 “ 本当のメロドラマは血と精液と涙によって書かれている ”
                ―――― フランス人のジョーク



   Fin.


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