色 は 匂 へ ど  散 り ぬ る を 。



『 雪兎 』
  − my immortal beloved −



雪は音も立てずに夜じゅう降り、朽木家の広い庭を銀世界へと変えた。
朝には雲ひとつ無い晴天となり、弱い日光が雪を融かし始める。松の枝に乗った雪がひとかたまり、ザザッという音と共に落ちた。
庭木の芽はなお硬いまま。春は遠い。

朽木白哉は広い居室にて座しつつ、何見るでもなく庭を眺めていた。表情は硬い。
この男が感情の表現に乏しいのはいつものことだが、今日はそれにも増して、硬い。
むしろ彼自身でそうあろうと努めているかの様に。

ふと、その部屋に人が近づく気配があった。上品に床を擦る足袋の音。そして何か荷物を持っているのか、金属やガラスやらの器具が鞄の中で触れ合う微かな音。白哉は客人の為に用意された座布団を確認した。
やがて、失礼します、という声と共に、白い羽織を纏った妙齢の女性が襖の向こうに現われた。

四番隊長・卯ノ花烈。
先ほどまで、病床に伏した白哉の妻を診ていたのだ。

「卯ノ花隊長ともあろう方に、幾度もご足労頂きまして」
いくら自分が副隊長だからといって、一方的な頼みで多忙な四番隊長を招く事に、白哉は頭を下げた。
ましてや自隊の部下にではなく、いち個人の身内の為に。通例からいえば、随分無理を通している。
「いいえ、朽木副隊長の奥様の為ならば、何の苦もございません」
うちは副隊長が頑張ってくれて、私ごときが不在でもなんとかなりますの、と微笑んだ。
「そうは仰っても、お忙しいところ申し訳ありません。まこと私の愚妻が・・・」
「朽木副隊長」
「はい」
無理に白哉を遮った卯ノ花は、多少悪戯めいた笑みを浮かべた。
「ことば上のこととはいえ、愚妻などという単語、口にすべきではありませんよ?」
「・・・はい」

無論、普段の卯ノ花は女を蔑む単語をいちいち咎めるような硬い人物ではない。故に口調はむしろ、弟をからかう姉のような響きに満ちている。聖母とも評される温かい微笑と共に。
白哉もそれは重々承知している。尊敬し信頼する卯ノ花だからこそ、緋真の往診を頼んだのだ。しかしこの時だけは、彼女の笑みは却って白哉の心をかき乱した。

これから口にするであろう事実を緩衝させようというのか、と穿った。
何せ霜が降りて以降、緋真は目に見えて衰えてきているのだ。

「それで、緋真は」
たまらず白哉が核心を問えば、案の定か、卯ノ花はゆるやかに白哉から視線を逸らし、ただ中空を見た。
そして、宣告する。
「・・・好くありませんね。気丈な振りをなさっておいでですが、好くはありません」

一息つき、卯ノ花は柔らかに、しかししっかりと白哉の眼を見据え直して続ける。
「お力になれず申し訳無い限りですが、そう遠くはない内に・・・どうぞお覚悟を」
幾百、幾千もの死を見つめた者の断固たる言葉として。

それは確かに白哉の心を抉った。しかし瞠目だけで済んで挙動を乱すことなかったのは、心の何処かで覚悟をしていた所為か。
「・・・そうですか」
「せめて、お心の障りを取り除いて差し上げられればよろしいのですが」
その言葉に、白哉は知らず自分の着物を握った。

緋真は女同士の気安さで卯ノ花にその件を語ったのだろうか。それとも卯ノ花が長年の経験から察しただけなのか。恐らくは後者だろうと白哉は思った。
第三者に語るには余りに重い彼女の咎だ。根は深い。
その機微を無理に訊き出さずにいる様子なのは、卯ノ花の心根によるものだろう。・・・賢明だ。白哉はそう思い、卯ノ花のせめてもの心配りに心中感謝した。

「・・・最後まで、出来ることはしてやろうと思います」
それだけ言い、白哉は目線を庭へとやった。卯ノ花もええ、と答えたのみで、白哉に倣い、黙して雪を見る。
冬の弱い光の中、雪は少しづつ緩んできていた。ぽたぽたと屋根から水滴が落ち、陽を反射して一瞬七色に光った。

こんなにも今我らが息づくこの世は美しい。

永劫、ここで緋真と共に在ることが出来ればどんなに善いだろうか。

しかし生者の祈りが何らの奇跡も呼ばないことを、死神として長く生き過ぎた白哉は知っていた。
そんな自分を、いまは強く呪った。



  ●



卯ノ花を見送った後、白哉は緋真の部屋へと向かった。
途中、思いつきで用意したものを携えて。


緋真はもう布団で寝てはおらず、丹前を肩に掛けて上体を起こしていた。
無言のまま襖を開けて中に入った白哉の姿を認めると、透き通るような白い肌にぱっと赤みが差す。
「卯ノ花様は、お帰りになりましたの?」
「ああ」
声だけ聞けば健常だと思えるほど明るく問う妻に、短く答えて白哉は布団の近くに座した。

大きな目、緩やかな曲線を描く頬、目が合えば少し眩しそうに目を細める癖。
そとみ、それは出会った頃から今も全く変わりはないように見えるのに、内側では病が苛烈に緋真を苛んでいる。それが白哉には信じられなかった。信じたくなかった。
「今日は、良いお薬湯を頂きました。お陰で身体が少し軽いのです」
「そうか」
嬉しそうに言う緋真は、なるほど確かにいつもより楽そうに見える。
一時のことかもしれないが、白哉にとってもそれは救いだった。

「これでまた、自分の足でもあの子を探しに行けるとよいのですが」
そう言って、緋真は庭へと目を向けた。しかし庭を見ているのではなく、記憶の中で赤子のままあり続ける妹を想っているに違いなかった。そして、「・・・なるべく、早くに」と、付け足した。

卯ノ花が指摘した、緋真の『障り』。それは彼女が幼い頃、生き延びるために捨て置いた妹の件に他ならない。
絶えず緋真の心に棲まうその後悔こそが、彼女の身体を内側から蝕んでいるのか。
それが分かっているからこそ、白哉も朽木の力を惜しまず投じ、妻の妹を探してきた。
しかし無常にも、今の今まで見つからずにいる。・・・或いは、もう既に、亡き者になってしまったか。

早くに、という響きに、今まで以上に彼女の急いた思いが滲み出ていた。
もしや、自分の死が近いこと、悟っているのだろうか。
白哉はそう思わずにはいられなかった。

冬の太陽は高くは昇らず、陽は部屋の奥まで差し込んでいた。陽光のなかにある妻は美しい、と白哉は素直に思った。
室内の火鉢で、ぱちりと炭が小さく爆ぜる音が響く。
「そうだ、」
白哉はふと思い出して、傍らに置いていた盆を緋真に見せた。朱塗りの盆に何かが盛られ、その上に白布がかかっている。
「融けぬうちに、これを」
手渡された緋真は不思議そうな顔をすると、布を取ってみた。

雪ウサギだった。

「まあ」
可愛い、と緋真は布団越しの膝に盆を乗せ、雪ウサギを愛でた。盛られた純白の雪に、笹の葉が二枚とナナカマドの実が二つ。緑と朱が目に鮮やかなそれは、なかなか端正な出来映えだ。
「ありがとうございます、白哉様」
「家の者に作らせたのだ」
「嘘」
くすくすと笑って、緋真は愛しげに夫を見た。

「白哉様が作って下さったのでしょう?」
そう言って、手を伸ばして白哉の膝に置かれた片手に触れた。
「だって、指がこんなに冷たいもの」
ひとまわりもふたまわりも小さな手が、軽く握られた白哉の拳を開くと、その骨ばった指は僅かばかり赤い。冷たい男の手を、緋真は包んだ。小さな温もりが白哉に伝わる。
「・・・おい」
抗議か、戸惑いか。つい白哉は呻いた。
白哉がらしくもない気恥ずかしさを覚えたのは、大の男が雪ウサギなど拵えたからだけではない。自分の手を温める妻の華奢な手からつい目を逸らし、ぼそりと言った。
「・・・好きだと言っていただろう、ウサギを。山荘に行った時に」
「・・・覚えて、いらしたんですか・・・」

先の夏、向日葵が盛りの頃。
白哉は緋真を連れ、朽木家の別宅に避暑に出かけた。最小限の共を連れただけの緑豊かな数日間を二人は静かに過した。
連れ立って野原を散歩する中、一羽の山ウサギが姿を現したことがあった。
小動物に関心を持たぬ白哉は、しきりに可愛い可愛いと言う妻に生返事を返すばかりだったのだが。
安らかな日の記憶と共に、白哉はしっかりと、覚えていたのである。

あの夏繋いだ手よりも、やや細くなった緋真の指が白哉には痛々しく思われた。
今、温もりと冷たさを分かち合い、同じ温度になった手と手をしっかり握り、白哉は妻の名を呼んだ。
「緋真」
「はい」
白哉は緋真の大きな目を見つめ、言った。運命にも有無を言わせぬ強さで。
「次の夏、また、あの場所に行くぞ」
「もう一度わたくしを、連れて行って下さるのですか?」
「ああ」
力強く頷き、確かに言い切った。運命がどうなろうと、未来がどうなろうと、ただ己はそう望むのだという宣言として。

「必ずだ」

「・・・嬉しい」

緋真は白哉の手をきゅ、と握り返して、童女のように澄んだ瞳で白哉を見つめた。
「ではわたくし、またお弁当を作りますね」
そして、貴方の好物の芥子れんこん、まだ上手に作れるかしら、と微笑った。


底に潜む哀しみの色は陽の中なお拭いきれない。

それでも白哉の愛する笑みだった。




しかし運命はやはり無常だった。




この冬の日交わされたあえかなる約束は、ついぞ果たされることはなく、



向日葵が咲く前に、

桜が咲く前に、

梅の花すら咲かぬうちに。



緋真は逝った。



白哉ひとりを花無き季節に置き去りにして。



  ●



皮肉にも、緋真の妹が見つかったのはその死から一年の後。
戌吊の過酷な環境を生き延び、死神になるべく統学院に在籍していた。
名をルキアという。

白哉は直ちに養子縁組の手続きを取った。亡き妻の遺言を守り、彼女を自分のもとで護るために。

緋真が死去した時から『後妻は娶らぬ』と白哉は公言していた。生涯、亡妻のみを想い続けるのだろうと周囲は見た。もともと、朽木の掟を破って緋真を家に入れた白哉のことである。この静かな男の内なる情熱を知る者には、その主張は筋の通ったものと思われた。
よってルキアを養子にした事自体は、実際にそうするかは白哉は特に図るつもりも無かったものの、『統学院に在籍する優良な女子を養子として朽木家に入れ、朽木の遠縁から能力のある男子を婿入りさせて世継ぎを産ませる』と、少なくとも周囲には見える筈だった。

ただひとつ誤算があった。
緋真とルキアは、余りにも似ていたのだ。
姉妹とはいえ、瓜二つと言ってもいい。白哉は初めてルキアと対面した時には狼狽を覚えたものだった。
もともと、緋真の存命時から彼女は余り表舞台には出ていなかった。よって多くの者は白哉の細君の顔を知らない。
しかし、無責任に噂は流れ始める。

『朽木白哉は亡妻に良く似た少女を慰み者にするのだ』と。

勿論、事実とは異なる。白哉にそんなつもりがある筈も無い。白哉自身はそんな的外れな雑音は気にする筈も無かったが、まだ少女に過ぎないルキアにそのような醜聞、付きまとわせる事は許されぬ。

故に、白哉はルキアに如何なる情も与えなかった。
労りも、優しい言葉を掛けることもなく、ただ冷徹に感情を排して接するように努めた。
元来からして白哉は器用な男ではない。家の中でのみルキアに情をかけ、それ以外では冷たく接するなど、できよう筈もない。ならばいっそと、自分の感情を凍らせることを白哉は選んだ。
そうすることで、余計な揶揄がルキアに向けられるのを防ごうとした。
この不器用な男なりの情だった。無論、それでルキアが孤独を感じるのも知った上で。

また、もう一つ。

白哉は、ルキアの顔を見るのが辛かった。
余りに亡き妻に似過ぎた少女の顔立ち。
あどけなさ残るその面差しは、もう二度と戻っては来ない永遠のひとを常に思い起こさせた。
それが、彼には身を斬るほどに辛かった。

事情を全く知らずに養子に入ったルキアは、義理の兄となった無口な男と、せめて拾われた恩義と共に新たな絆を持とうと試みた。だが、視線が合う度に辛そうに目を逸らす新たな『家族』とでは、距離を測る術も見出せずに時は過ぎた。


そして、亡き緋真の念願叶って義兄妹となった白哉とルキアは、朽木の名を同じくしても赤の他人以上に距離を置くほど疎遠になる。


運命は皮肉さを以ってなおも彼らをその爪に捉えていた。



  ●



そうしてルキアが朽木家に来てから数十回目の冬。
冬の終わりを惜しむように、その年最後の大雪が降った。

暖かな日差しにすぐに雪は融け始め、日陰に僅かだけ残っていた。
白哉は庭を歩いていた。もともと散歩は好んで行っていたが、緋真が亡くなって以降、あてどもない逍遥は彼の癖にもなっていた。そして時折、足を止めて景色に見入っては、かつて隣を歩いていた亡き妻を偲んだ。

自宅の広い庭はよく丹精されていて、庭木の冬囲いにも綻びはない。独りの身になってから、白哉は乱れのないもの、整っているものをより好むようになっていた。年月が自分を気難しくしていると、気付かぬままに。

ふと散歩の最中、白哉は無人の筈の庭に人影を認めた。
落ち着いた浅葱の着物を着た小さな姿が、こちらに背を向けてしゃがんでいる。ルキアだった。
白哉は黙ったまま近づいた。花のある季節でもないのに、一体何をしているのかと思った。
「ルキア」
「きゃあっ!?」
自分を呼ぶ声にルキアは頓狂な声を上げて、振り返った。白哉だと分かると、一瞬、驚いた顔に直ぐに怯えの色が差す。それが見て取れて、白哉はごく静かに息を吐いた。自ら招いた業だ、受け入れるしかない、と己に言い聞かせながら。

「・・・何をしていた?」
「これを・・・作っていたのです」
押し殺した声での問いに、おずおずと少女は両手に何かを乗せて白哉に見せた。


冷たさに赤くなった小さな手に乗っていたのは、

・・・雪ウサギだった。

融け始めた柔らかい雪で作られ、目が少し離れすぎていて、ひどく不恰好な、雪ウサギだった。


それを見た白哉は、何も言わなかった。
言えなかった。
運命の偶然が見せた幻かとすら思われた。しかし確かにここにある光景。
感情を棄てた筈のこの男の胸にこみ上げ、瞬時に眼を熱くさせたその想いを、何と表現できたろう?

時間にすれば、ほんの一瞬に過ぎない沈黙の後、白哉は口を開いた。
「・・・風邪をひいてはならない。屋敷に戻るぞ」
くるりと背を向けて歩き出し、薄着のままのルキアを促した。
ルキアは折角作った雪ウサギを手近な庭石の上に置くと、早足で歩き去ろうとする兄の後を追った。

しばし二人とも無言で歩いた後。
自分の子供っぽい遊びが兄の癇に障ったのかと身を縮ませる少女に、白哉の声が届いた。
「ルキアは・・・ウサギが好きか?」
「・・・はい! 大好きです」
抑揚のない声での問いだったが、珍しく嗜好を聞かれたルキアは、顔を上げて答えた。
その顔は陽を浴びて明るい。
そして惧れを棄てて尋ねる。
「白哉兄様は、ウサギはお好きですか?」
無垢な問いを背中越しに掛けられ、白哉はしばし考えるように、空を仰いだ。
「そうだな・・・」
そのまま、目を閉じ静かに答える。

「・・・嫌いではない」

瞼を開いて空を見上げれば、そこには青空。
緋真と共に過した夏の空を満たした、あの光の明るさとは比べるべくもないが、
陽の暖かさは確かに、冬を追いたて始めているようだった。

遠く南から帰ってきた鳥の声が白哉の耳に届く。




春が近いのだ。



   Fin.


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