『 宵闇に狂ふ 弐 』
  − brother sun, sister moon 3(of prayer) −




すゑは闇のなかで目を覚ました。床に入ってから、それ程の時間は経っていない。どうやら眠りが浅かったようだ。
冷えた空気が肩口を撫ぜて、すゑはぶるりと震えた。薄壁のむこうからじわじわと寒気が漂ってくる。火鉢の温もりなどとうに消えていた。寒い夜だ。
隣の布団では孝太と幸枝がすやすやと寝息を立てている。さらにその向こう、いつも緋真が眠っているはずの布団は畳まれたままである。いつもと違い、安らかに人が眠っていないさまは、どこか冷え冷えとして空虚だ。

やはり、独りで行かせるべきではなかっただろうか。すゑは無意識に溜息を吐く。
たとえ慣れているとはいえ、緋真だけをあの場所に行かせるのはやはり、不安が残る。自分の身体の不調と、なにより緋真の切羽詰まった様子に、とうとう彼女の申し出を呑んでしまったのだが・・・。

すゑは案じながら布団を抜け出すと、厨房で瓶の水を求めた。ひしゃくの中身を飲み干すと、どこか心臓が落ち着かない。寒さだけではない、這い登るような寒気が背筋に張り付く。・・・何か、いやな予感がする。子どもたちにか、或いは緋真に、悪いことでも起こるのであろうか・・・?
すゑが思いつめていたその時、突然に玄関の戸を激しく叩く音がした。

このような時間に、何者か。すゑは寝る子らを起こさぬように静かに厨房を出ると、廊下の柱に立てかけてある木刀を手にした。ゆっくりと玄関に忍び寄ると、戸のむこうに人影を認める。
「・・・!」
突然の訪問者の気配はすゑもよく慣れた人物のものだった。急いで木刀を置いて玄関の戸を開ける。ほの暗い闇の中に、なかば溶け込むように佇んでいる男の姿。
細身で長身、僅かに香が薫るその人物は、白哉だった。

すゑは言葉を失した。また、彼もひと言も話さない。こんな時間に薄闇に立つ白哉は、不穏な雰囲気に包まれていた。白哉はなまじ普段から感情の機微を表に出さない男である。それだけに、彼の敢えて怒りを隠そうともしない無言の剣幕に、すゑは動じた。
尋常ではない。すゑが身を固くすると、やがて、白哉は重い口を開いた。

「あの娘は、どこです」
「・・・」
「あの娘は・・・今、この家にいるのですか」

怒りを強いて押さえたような白哉の声音に、すゑは一瞬にして悟る。
夜更けに突然尋ねて来、さらに常ならざる怒りに包まれている白哉。その、推測できる理由は只ひとつのみ。・・・この男は。この男は、何らかの理由によってあの子の秘密を知ってしまったのか?
緋真の・・・彼女自身、もっとも忌み嫌う暗部に触れ、激昂しているのか?
「すゑ殿!」
戸惑うすゑの肩をいささか乱暴に掴み、耐えかねて白哉は声を荒げる。

「貴方は・・・、あの娘に身体を売らせていたのですか!?」
「・・・・・・・・・!」
すゑの瞳が驚きに見開かれる。なんということか。・・・なぜ、どうして・・・。
突如にして頭を殴られたような衝撃がすゑを襲う。驚愕が、やがて悲しみに取って代わり、心を占めていく。
そして彼女は白哉の剣幕に迷ったように口を開き、何かを重大なことを教えようとして、しかし止め、呟いた。
「・・・あたしは・・・あたしの口から、それを言うことはできない」
「この期に及んで何を!」
否定も、肯定もしないすゑに、なおも白哉は問い詰めようとする。
すゑは鋭い視線で白哉をきっと睨み、彼の袖を掴んだ。そのまま、老人にしては強い力で白哉を門の前まで引っ張っていく。
「一体・・・」
驚く白哉に、すゑはすい、と家から反対側の地平を指差した。

戌吊の端、宵闇が赤くおぼろげに光っている方向。安っぽい紅色の灯篭が軒を連ねる・・・花街だ。
「自分の目で直接、確かめな」
目の前の年老いた女は、先程の狼狽が嘘のように毅然と言い放つ。白哉ですら抗えぬ威圧。すゑの、悲しみ故だった。
「・・・・・・」
白哉は何ぞ詰問を重ねようかと考えたものの、すゑの毅然とした様子に、何も言わず踵を返した。苦々しい怒りと混乱、そして胸を苛み続ける疑惑に、ようやく呪詛だけを搾り出す。
「・・・私は・・・私は、貴方を軽蔑する」
「軽蔑だって何だって勝手にするがいいさ。だけど、その事についてはあの子に直接訊きな。・・・あたしは、今は、それしか言えない」
目の前の男の怒りを受け止めて尚、すゑは気丈に言う。白哉は最早口を開かず、振り返ることなく足早にその場を去った。昏い路地を踏みしめ、誰に向けて良いものかも、分からぬ怒りに突き動かされながら。

すゑは黙してその背中を見つめる。言うべき全ての言葉を呑み込み、彼の悲しみと怒りを、そしてこれから緋真に訪れるであろう絶望を想った。いつの間にか彼女は両の拳を握り締め、唇を強く噛み締めた。

赤い光へと向かって歩む白哉の背中は小さくなり、やがて闇に溶けた。

絶望の道ゆきだった。


  ●


ほどなく、白哉は花街へとたどり着く。下級死神や、死してもなお肉欲の楔に穿たれた流魂街の男どもが、ひと時の享楽を求めて集う場所。腐ったような安い酒の悪臭が鼻につく。ついで、くどい脂粉の臭い。夜気と相まって、空気すべてが腐っているようにすら思われた。

ねえ綺麗な顔の兄さん、あたしの体、具合いいのよ。
鼻にかかった声で袖を引く女を、白哉は侮蔑の念を込めて振り切る。その年増の崩れた顔に一瞬、あどけなさ残る緋真の顔が重なって見えた気がした。
よもやあの娘もこのような視線で男に艶を向けるのか。かつてささやかな花を愛で、自分に凛と意見を通しすらしたあの目。その理知ある眼差しが、赤行灯の下では男の手により淫猥な光を灯すのか。白哉は吐気すら覚えた。

だが、どこまでも冷静な性である白哉の脳裏のどこか、芯に近い部分は告げる。『ありえないことではない』と。
心は、残酷な事実を自身に語り続ける。
自分が生きる手段として、また人を養う手段として花を売る女達など、流魂街では珍しい存在ではない。また、そのようにしか世を治められていない遠因は、他ならぬ我ら死神にあることも。

しかし白哉は、己の判断を否定する。明確な根拠がある訳ではない、ただひたすらに拒みたかった。これまで自分と相対しては、微笑み言葉を交わしてきたあの娘が。陽だまりのなかで微笑む、一輪の野の花のように佇んでいた彼女が―――いくばくかの金程度のために穢されているなどと。違う。断じて、そのような事、ある訳が。

祈りに似ていた。これまで現実と、己を取り巻く楔に縛られていた白哉の、殆ど初めての願いだった。

「どこだ」
いつの間にか彼は声に出して探し始めていた。肩を押された酔客が罵声を上げ、直後、白哉の鬼気迫る様子に口を噤む。
「どこだ・・・!」
人ごみを目で探しながら、白哉の心は乱れる。
特に理ない仲というわけでもなく。ただ時折書物を貸し借りし、言葉を交わしていただけだというのに。
何故、自分は斯く如く奔走しているのだ?
初めて自覚した感情に遊里の猥雑な空気が混じり、白哉の脳裏は鈍化する。ただ、絶望と、ひとすじの願い為に、一人の少女の名を口に載せた。
「・・・緋真・・・」
これが彼女の名を呼んだ最初の一声であることを、白哉は自覚しない。ただ、心臓を引き絞るような痛みに耐えて、人ごみの中に彼女の姿を探すだけだった。
「緋真・・・!」

人の間を抜け、軒を連ねるさまざまな種類の遊郭の格子、夜鷹が客を探す裏路地、膨大なそれら全てを見て探す。
白哉は惑う心の僅かな部分で、見つからねば良いのだと願う。あの少女はこのような場所をうろつくような者ではない。そうだ。清家はおそらく、自分の交友を諌めるために偽りを申したのであろう。そうあって欲しい―――。

しかし、願いは届かない。

主な路地を見て廻り、遊里に住民の家が混じり始めた花街の外れ、小さな路地の中に、白哉はその気配を感じた。
どこか懐かしいような、小さくて温かい、紛れも無い彼女の気配を。

辻を曲がり、白哉は路地を歩む。建物の間の行き止まり。その裏口に、彼女の姿があった。―――ひとりの男と共に。
何事かを男と話していた緋真が、歩み寄ってきた一人の人物に気付く。
そして彼が何者であるのかを認めた瞬簡に、その表情がみるみる青ざめていった。
「・・・白哉、さま・・・」
慄く唇で己の名を呼ばれる。瞬間、白哉のなかでひとつの情動が弾ける。これまで、彼の人生の中で一度も崩れなかった心の堤が、穿たれ、みじめに決壊する。
「・・・どうして・・・白・・・」
「何故だ」
驚きと恐れに打ち震える少女の腕を掴み、白哉は訊いた。
混乱の極みと、初めて目にする感情を露わにする白哉の姿に、緋真はただ蒼白で立ち尽くすしかなかった。

「何故だ、緋真・・・っ!!」

受け止められる筈もない慟哭が、綯い交ぜになった感情と共に、空しく闇夜に響いていた。


  ●


「悪い風が・・・吹いている」

すゑは、玄関先から空を見上げて呟いた。
「いやな夜だね・・・」
白哉が飛び出して行った方向、真北の方向からゆるく風が吹き始める。
身を覆う角巻をぎゅうと握り締めながら、すゑはこれから訪れる暗い暗い吹雪に想いを馳せた。風はどんどん強くなり、乾いた冷たい雪を運んでくるであろう。そして人の身体を冷やし、心を固く凍らせる。

「・・・本当に、いやな夜だよ・・・」

空を見つめながら雪を忌むすゑの願いとは裏腹に、冬の夜空はどこまでも暗く、重く、憂鬱さを増していった。
吹雪がくるのだ。

けっして望まれることのない、冷たい痛苦が、われわれに。



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