『 宵闇に狂ふ 参 』
  − brother sun, sister moon 3(of tears) −




闇のなか、風が吹く。
冬の空気を孕んで冷たく、やがて、はらはらと落ちてくる雪の群れを捉えた。やがて雪風となって風は吹く。原野を抜け、家々を越え、心悩む者達にも等しく。


流魂街下層区の中でも有数の悪所、戌吊の花街。その裏路地で、緋真と白哉は立ち尽くしていた。強くなりつつある風にも気付かぬままに。

ふたつの絶望が、そこにあった。

「そんな・・・」
緋真は、わななく唇をようやく動かして言葉を搾り出した。
「どうして・・・貴方が・・・」

なぜ。どうしてこのような場所に自分の想い人が。どうして、常に冷静だったこの方が・・・怒りにかられているのか。
答えの出ない数多の疑問と絶望に、緋真はただ震える。幻か。いや、目の前の人物は幻影ではない。確かに自分の名を呼び、いま自分を見据えている。白哉の姿が現実のものと認識するに従い、緋真の心は芯までも凍っていくようだった。
「どうして、ここにいらっしゃるんですか・・・」
「・・・それは、私がお前に訊きたい」
努めて声を荒げることを抑えた白哉の声。そこから滲み出る激しい怒りを感じ取り、緋真は怯えた。そして射抜くような、冷たく鋭い眼差し。たじろいで思わず視線を落した先に、白哉の手が映る。強く強く握り込まれ、白く血の気を失った手が。

その手に、ぎり、とさらに力を込めて、白哉が重い口を開いた。
「・・・お前は。お前は、生活のために男に身体を売っているのか?」
「!」
白哉の言葉に、緋真は全身を雷で打たれたような衝撃を受ける。
「な・・・!」
「さては、」
信じられぬ疑問を投げかけられて言葉を失う緋真を更に睨み、白哉はなおも怒りの篭もった声で尋ねる。
「すゑ殿がそのような事を指示しているだな? あの狸婆、お前に客を取らせて・・・」

「違います!!」

鋭い声が辺りに響いた。思わぬ強い言葉に、白哉は目をみはる。それまで、か細げに身を竦めていた緋真がこちらを凛と向いて声を上げていた。
「違う、違います! おばあちゃんはそんな人じゃない! おかしな事を言わないでください!!」
強固な否定に白哉が不意を突かれると、緋真はいまにも消え入りそうなで語りはじめた。
「違うんです・・・わたしは、身を売るためにここに来ているんじゃないし、おばあちゃんはわたしに絶対そんな事はさせない。・・・ただ、わたしはそれよりも、身を売るよりも、もっと・・・」
「・・・?」

ぎゅっと自分の身を抱きしめるようにして俯く緋真の肩に、思わず白哉が手を伸ばすと、指先と緋真の身体の間に突如、音もなく扇子が入り込んだ。
「はいはい、はいはい。ちょっと御免なさいませねェ」
場にそぐわぬ間延びした声が、張り詰めた空気を破る。反射的に白哉が柄に手をかけて半歩下がると、緋真と話していた男が割り込むように白哉と緋真の間に立っていた。

「いやァ、旦那さん。お取り込み中のところ誠に申し訳ござんせんが、この嬢さんにとっちゃ、あっしの方が先客でございやしてね。いや、太鼓持ちのあっしが客というのもおかしな話でござんすが、なにせ緋真の嬢さんたってのお願いでやすから」
「伝助さん・・・」
この状況で、不気味なほどに笑顔を絶やさない小太りの男だった。安物の流しの裾を絡げ、ぷっくりとした頬は長年の酒毒のせいか黄疸まみれである。緋真に伝助と呼ばれたこの男、道化た話し方と男の言葉を信じるならば、この界隈の郭で働く幇間か。
「なんだ、貴様は」
「いやいやいや、あっしなんぞは只のチンケな太鼓持ちですよお。それよりも、ちょっと、ちょーっと失礼しやすね」
男は訝しがる白哉を意図的にか受け流すと、飄々と緋真の側に近付き、腰を屈めた。
「何を―――」
白哉が思わず再び腰の鞘に手を伸ばすと、伝助は意に介すふうもなく、緋真に何やら耳打ちを始めた。
「嬢さん。・・・・・・・・・・・・」
「はい、・・・はい。そうですか。ありがとうございます、伝助さん」
言葉の内容は白哉には聞こえなかったが、男が何やら耳打ちするにつれ、緋真の表情は僅かに安堵か憂いかが複雑に入り混じった表情に変わっていく。伝助はそんな緋真の肩を安心させるように軽く叩くと、道化たように大げさな一礼を白哉に向け、ひょいひょいとその場を離れた。
「ではそろそろ座敷に呼ばれる頃ですもんで、あっしはこの辺で失礼いたしやすよ! あとはお若いお二人でしっぽりやっておくんなさい。や、こりゃ過ぎたことを申しやしたかね。失敬、失敬」
男はそのまま近場にある郭の裏口に足を向けたかと思うと、「おおそうそう、忘れていやしたよ」と言って振り返り、白哉に近付いてきた。
「若いお二人にゃ、何かと騒動があった方が燃え上がるってのが定石ですがね。万一そのお腰のものを使おうってんなら、そりゃあ道理に反したことだ。姐さん方じゃねえとはいえ、この界隈で女の血を流してみなせえ、・・・忘八の旦那衆が見逃してくれやせんぜ」
表情は、相変わらずにやにやと笑ったままである。声も明るいが、細められた目が、僅かに鋭い光を白哉に送っていた。血を知る者の眼だった。
何を、と白哉が口を開こうとした瞬間、伝助はさっと踵を返すと、また軽々とした足どりで廓へと去っていった。「じゃあ嬢さん、気ィつけなさって下せぇ!」と響く声に、緋真は丁寧に頭を下げ見送っていた。

白哉は僅かに惑う。当初はあの男が緋真の客かと思ったが、彼は今、緋真に危害を加えることを暗に牽制した。白哉には勿論そんなつもりは無いが、そのような気遣いをするとはあの男、少なくとも緋真の事を案じている立場なのか。緋真と話していた内容はどのようなものであるのか。
緋真は春を鬻いでいたのではないかという自分の疑念を、強く否定した。では身体を売るよりも酷いこととこの少女が言ったのは如何なる・・・。

白哉は一度、瞑目した。
眼を開き、傍らで所在なげに佇んでいる緋真と目が合う。映っているのは当惑と絶望。少女は悲しげというよりも酷く苦しげに、顔をこわばらせている。身体の前で握った手が震えていた。
「緋真」
名を呼ばれ、びくりとその身体が震える。目に見える怯えの様子に白哉は息をつくと、努めて冷静に、可能な限り感情を隠して、ふたたび緋真の眼を覗き込んだ。
「・・・話を、訊きたい」


 ●


二人は無言のまま、雑多な裏路地を後にした。俯いた緋真が先を歩み、白哉が続く。
やがてたどり着いたのは、花街の隅。僅かな木々に囲まれた、現世風の小さな社だった。
遠くで遊里の提灯が煌々と灯り、うすぼんやりと此処までも照らす。簡素な作りの社は、住人が建てたものであるらしかった。現世で死して流魂街に辿りついた今もなお、神仏に縋る習慣が抜けぬのだろう。
浮世の憂いの中で神を崇める気持ちなど、白哉には分からぬ。だが、この社はこまめに手をかけられているのか、古びた印象はなく、むしろ小奇麗である。脇には、小さいながらも四阿(あずまや)まで設けられている。白哉と緋真は、そこに設えられた椅子に腰を下ろした。

すっかり葉の落ちた林は風から彼らを守らず、雪の混じった冷たい風が四阿に吹き付ける。
しかし、緋真の重ねた手が震えているのは、寒さのためだけではない。
「・・・それで、」
痺れをきらし、白哉が口を開く。
「一体、どういうことなのだ」
「・・・」
促された緋真は痛みを堪えるような沈黙ののち、ぽつり、ぽつりと語りだした。俯いたまま、掠れそうな小さい声で。
「・・・白哉さまは、さっき、わたしが身体を売って子ども達を養っているのだと思われたんですよね」
「・・・ああ」
緋真は、小さく首を振った。
「違います・・・そうではないんです。わたしは、そんな事すらできなかった。体と引き換えに人を育てるなんて行為は、まだ尊い。わたしは・・・もっと酷い人間です。・・・本当ならあなたとこうして口をきくことすら罪深い、人でなしなんです・・・」
「・・・もっと、酷いだと・・・?」
真意の見えぬ緋真の言葉に、白哉は惑った。身体で金を手に入れるよりも、酷いことだと?
緋真は両手を強く握り締めると、まるで自分の心に刻み込むように、・・・告げた。

「・・・妹を捨てたのです。立つこともままならない、まだ乳飲み子だった実の妹をわたしは・・・自分が生き延びるためだけに置き去りにした・・・。わたしは、ひとごろしです」


緋真は訥々と、だが途中で止めてしまうことなく語った。

話は、緋真がまだ流魂街に来る以前、即ち現世で死した時から始まる。
もはや朧げにしか思い出せないが、緋真はまだ赤子だった妹と共に、現世で戦乱に巻き込まれて命を落としたという。
長い時を生きる白哉にとっては数多の人間の戦の一つ。実に醜い、正義など欠片も無い諍いにより、緋真と妹の肉体は現世で滅した。
しかし魂は死なぬ。死者の倣いとして、二人は尸魂界に送られた。
降り立った場所は現世の者が夢見る極楽浄土ではない。無情なくじ引きにより緋真と妹が送られたのは、南流魂街・第七十八区・戌吊。・・・死後の世界のなかでも、有数の悪所であった。
安息など欠片もない。土地は痩せ、気候は厳しく、人々がまさしく狗の如くに地を這って生きるような場所であった。

更に過酷な事実が緋真を打ちのめした。
通常、流魂街の者は殆ど食糧を必要とせず、空腹とは無縁である。清潔な水さえ確保すれば、悪辣な環境の犬吊でも生き延びることだけは可能だ。
だが、緋真と妹は違った。稀に霊力を持つ者が住人の中にあり、かれらは現世の人間と同じく食物を摂取しなければ飢えてしまう。この姉妹がまさにその、霊力を持つ者たちだったのだ。

事情を知った緋真は妹を抱えて、地区を管理する死神に尋ねた。
『私は死神になりたいのです。霊術院という所に入って死神になれたら、飢えて死ぬことはないのですね』
死神は一笑に付した。
『確かに死神となれば食うには困るまい。だが、貴様のようなちっぽけな力しか持たぬ者は統学院に入学すらできぬわ、馬鹿者め』
ましてや妹はみどりご。発する霊圧は緋真よりも高いようであったが、この年齢では統学院に入学するなどとても無理なことだった。

道を絶たれた緋真は絶望に眩れた。
住民の多くが水だけで生きているため、何か食べるものを探そうにも商いすらない。痩せた土にはともすれば植物も疎らで、口にできそうなものなどない。
肉親も、知己も、頼りになる者が誰も居ない地。空腹と泣く妹を抱え、身を刺す寒さに震えるだけであった。

最大の憂いは妹である。乳飲み子の、妹のことである。
緋真ですら口にするものに欠く現実。赤子は飢えて泣くが、しかし、乳は無い。子を為すことが基本的に制限された下層区では、乳を含ませてくれそうな女など、見つからなかった。野に出ても屍骸を狙う鴉や、痩せてこちらを狙う犬ばかりで、生き物から乳を得ることなど不可能である。

赤子は弱りさらに泣く。それは緋真も同じで、生き延びるために奔走していた緋真は、自身もやがて力を失っていく。
やがてその日も夜がくる。闇が広がる。緋真はもはや歩くのにも呻吟し、痛みにも似た空腹が意識を朦朧とさせ、一つの、選択を強いた。

「・・・そして、わたしは、妹を捨て去ることを選んだのです」

俯いたままで、緋真は核心を告げた。まるでひと言ひと言を、自分の身に刻み込むようにして。
「わたしは、おぞましい人間です。妹ひとりだけでは生き延びることができないと知っていながら、あの子を置いて・・・逃げた・・・」
「・・・・・・・・・」
白哉は言うべき言葉を見つけられずにいた。下層区の事情はこれまですゑ達から聞いていたし、資料からも困窮ぶりは知っているつもりだった。
しかし、目の前で少女が取り返しのつかない過ちを悔いるその姿は余りに痛切で、強く白哉の心を刺した。

『生きるのにも精一杯な奴ってのは、正常な判断ができなくなっちまうもんだから、さ・・・』
白哉の脳裏にいつぞやのすゑの呟きが蘇る。あれは、緋真の事を云っていたに違いあるまい。
緋真の事情を察するに、妹を諦めねば自身の命も危うかったのであろう。子捨てをなど肯定されてはならぬ行為だが、その状況においては止むなき事だったのではないか。彼女の行動を完全に否定することなど、誰もできぬのではないのか。
しかし白哉は、緋真に易い言葉をかけてやることができない。彼女の行為を最も誹り、否定しているのはこの緋真自身である。目の前の少女が痛いほどに自らを責め、深い悔恨の中でかろうじて呼吸をしている様子に、白哉はかける言葉など見つからずにいたのであった。

しばしの沈黙の後、緋真は静かに続けた。
「一人になって・・・わたしはすぐに正気に戻りました。そしてあの子を置いた場所に戻りましたが、もう姿はなく・・・」
「・・・手がかりはなかったのか」
緋真は首を振り否定した。
「産着も、おくるみも、何も残されてはいませんでした。・・・血痕、・・・とか、誰かに危害を加えられた跡もありませんでしたが・・・でも、誰かに拾われたとしてもお乳が得られるような環境でなければ、育てることは・・・」
その場合、意味する事は早い段階での死である。赤ん坊は何者かに連れ去られた後、食物がなく早々に死んだ。・・・おそらくはその可能性が高いのであろう。
「すゑ殿は、この事を?」
小さく頷き、おばあちゃんは最初から知っていました、と緋真は続けた。
「妹を捨ててから少しして、わたしはおばあちゃんと出会って、あの家に身を寄せました。おばあちゃんは・・・私のしたことを責めませんでした。責めずにただ、『死んだとは決まっていないだろう』って・・・、妹を探そう、って言ってくれたんです」
白哉は先程の緋真の激昂を思い出していた。身を売っていたのかと自分が問うた時に彼女はただ驚いているだけだったが、すゑに話が及んだ瞬間、激しく白哉の誤解を否定した。そこにあったのは絶対の信頼だった。
確かに冷静に考えれば、人格者たるすゑが緋真に身を売らせるなどということをさせる筈はない。白哉は心中、己の誤解を恥じた。

「では・・・何故お前は、廓の界隈にいたのだ?」
「それは、・・・女衒も連れてこられた少女たちの中に妹らしい子はいないか・・・探すためなのです」
緋真は真実を語る。
花街ではある程度決まった日にちに、女衒が人攫い同様の手口で集めた少女たちを売りにくる。彼女たちは廓の主人に認められればまず禿(かむろ)として郭に住まい、また買い手もないよう場合には、女衒どもに散々打たれた後に独り放り出され、花を鬻ぐ運命なのである。
緋真が似つかわしくない花街に通っていたのは、こういった少女たちの中に故あって紛れた妹がいないか、探しに行っていたのだ。清家の放った部下は、緋真がまめまめしく花街を歩いて人に訊く様子から、身を売っているものと誤解したのであろう。
治安が悪い場所であるから、いつもは世知に長けたすゑが緋真に同行し、ともに彼女の妹を探している。今夜はすゑが生憎腰を痛めていたため、緋真独りでこの場所にやってきていたというのだ。

先程緋真となにごとか語っていた伝助という幇間。彼は緋真の手助けをしているのだという。自分が属する廓や他の店に入った新入りに目を配らせ、情報を緋真とすゑに教えていたのだ。先に緋真に耳打ちしていた内容もその情報である。
白哉は疑問に思う。伝助は何故に緋真を助けているのか。
幇間とて店の使用人である。緋真が妹を見つけ連れ帰ろうとするならば、それは廓にとって大きな損失である。ただの親切心で緋真を助けるような真似はすまい。
疑問に、伝助も同じ境遇だからなのだと緋真は答えた。
「・・・あの人も、流魂街に送られた時に奥様と離別してしまったのだそうです」
かけがえのない身内と止むなく生き別れる。緋真と同じ心の痛みを抱えた伝助は深く同情し、危険を冒して協力してくれているのだという。

「・・・でも今も、妹は見つかりません。生きているかどうかすら分からないのに、私は・・・探すことをやめられません。私には、それしかできないのです」
一通りを語り終え、緋真は俯いたまま、掠れた声でそう言った。
沈黙が訪れる。降り落ちる雪の量は増え、風の音だけが二人の間にあった。

「・・・緋真」
何事かを深く考えていた白哉は、厳しい顔で口を開いた。自分を呼ぶ重い声に怯え、緋真は身を竦める。
怒っただろう。呆れたのかもしれない。どちらにせよ、もうこの方は私の穢れた秘密を知ってしまった。貴族と平民のわたし達を結んだ細い糸は切れてしまった。下賎な人殺しと誹られ、或いは手打ちされても・・・それでも、構わないかもしれない。

これでもう、全てが終わる。

緋真が覚悟をする前で、白哉はある予感を以って、意外なひと言を発した。
「もし・・・妹が花街で見つかったとしたら、お前はどのように助けるつもりだったのだ」
「・・・え・・・?」
「その妹が流れて街娼になっているのならともかく、郭に入った娘を受け出すつもりなら相当な金子が要るだろう。・・・どうやって用意するつもりだった?」
「・・・っ」
言葉に詰まる緋真に、白哉は淡々と続ける。
「失礼だが・・・お前達の暮らしぶりを見ていると無理なのではないか。廓から無理に連れ出すにしても、死神になることも出来なかったお前だ。・・・簡単には逃げおおせまい」
「それは・・・その、お金はおばあちゃんが何とかして用意すると言ってくれて・・・わたしはそれに縋るつもりで・・・」
緋真は言うが歯切れは悪く、白哉を見ない。
「本当にそうか?」
びくり、と緋真は身を固くする。嘘を見て取り、白哉はさらに続ける。
「私の見る限り、緋真、お前はすゑ殿に対して非常に気を遣っているように見える。そのお前が妹を受け出す大金を頼るだと? 本当にか? ・・・お前はもしや、自分が妹の身代わりとして売られるつもりでいたのではないのか?」
「!!」
核心を突かれて緋真は動揺する。その目に宿る戸惑いを感じ、白哉は声を荒げた。
「もしも妹が見つかったとしても、それなら意味が無いではないか。妹やすゑ殿がそのような事を望むと思うのか!?」
「妹やおばあちゃんは関係ない! これはわたしの気持ちの問題なんです」
「緋真!」
白哉の怒りの問いかけに、一歩も引かずに緋真は答える。大きな目に悲しみと混乱が混じり、白哉を見ていた。
「だって・・・、だって、そうでもしないと、わたしはあの子に対して償いきれない!」
それまで堪えていたものが全て流れ出し、緋真を激情に駆る。
「わたし・・・は・・・っ! 赦されることじゃない! 絶対に! あの時、身体を売ってでもわたしは妹を守るべきだったのに、それを・・・っ、わた、わたし・・・」
もはや目の前の白哉に対してではない。自らの罪を己に刻みつけるように、緋真は慟哭した。
言葉は掠れ、瞳に大粒の涙が浮かぶ。
「わたし、は。死ぬかもしれないの、知ってたの、にっ、あの子を・・・捨てた・・・っ」
「緋真・・・」
目の前で感情を顕にし、悲しみを吐露する少女を、白哉はただ呆然と見ていた。

「うっ・・・あう・・・」
慟哭は糸が切れたように力を失い、やがて嗚咽へと変わった。苦しげに歪められた瞳から、ひとつ、ふたつ、涙の粒が零れる。
「緋真・・・」
落ちんとする涙の雫に、思わず白哉が手を伸ばす。だがいくら指先で拭おうとしても、とめどなく緋真の涙は溢れ止まない。やがて白哉の指を温かく濡らしていく。
「緋真」
優しげなその指先が却って自分には辛く、緋真の嗚咽はさらに勢いを増す。
「お願いです・・・やさしく、しないで下さ・・・」
しゃくりあげながら、それでも緋真は懇願する。なかば無意識に白哉の手を払い、これ以上泣くまいと固く目を瞑った。
「わたし・・・は、そんな・・・される価値なんてない・・・。貴方に・・・、貴方に真実を話すことにも怯えた・・・卑怯な・・・」
それでも、彼女の涙を拭おうと手を伸ばし、頬に触れた手に驚いて緋真が目を開くと、目の前に白哉の顔がある。美しすぎる眼を気遣わしげに細め、それでも緋真の涙が止まらぬのを見ると、思わず手を伸ばして彼女を強く抱きしめた。

それが、最後の砦だった。

「う、うああ、ふっ、うっ・・・」
「緋真」
幾度も自分の名を呼ぶ落ち着いた声。強く自分を包み込む白哉に縋って、緋真は泣いた。もはや憚ることなく声を上げ、赤子のように泣きじゃくる。白哉は慰める手段も知らずに、自分の腕の中にあるか細い身体をただ抱きしめた。
声と鼓動。そして腕の中にある確かな温もり。ほとんど初めて体験するような友愛の情が白哉の心を占める。
「あっ・・・うああ、うああああん! わあああああ・・・!」
あらん限りの声で。緋真は白哉に縋って泣き続けた。少しぎこちなく、しかし確かに自分を抱きしめる白哉の存在に縋って、なにもかも吐き出した。雪が吹き付けはじめるなか、仄かに伝わる、互いの体温。その温もりはひととき緋真の心に染み入った。
「う・・・、うああ、う・・・っ」

やがて、嗚咽は時とともに小さくなる。いつしか白哉の羽織を握り締める手から力が抜け、緋真は意識を失っていた。泣きつかれてゆるやかに眠る子どもの如くに。
白哉は弛緩した緋真の身体を受け止め、みずからも混迷のなかにありながら、改めて腕の中の彼女を見る。自分の肩幅より幾廻りも小さな彼女の肩。僅かに顔を覗き込むと、泣きはらした目蓋が紅い。


・・・・・・・・・ “ わたしを赦さないで ”

「・・・」
うわ言か。幻聴か。腕の中で息づく緋真が、そう小さく呟く声が白哉に聞こえた。

風が強い吹雪へと変わり始めた。小さなこの身体に根付く深い疵を想い、白哉は彼女を雪から守るように、抱きしめる腕に力を込めた。



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